2026/09/01

今朝7:00-8:00までルター訳詩篇第148篇を読む・・・

    今朝7:00-8:00までルター訳詩篇第147篇を読みました.

    ルターの独訳聖書の創世記第1章第1節からはじめた聖書通読も今は詩篇,しかも第1篇から読んできて詩篇第147篇にたどりついています.

    今日は, 詩篇第147篇を読んだ, 日本基督教団日本基督教団西中国教区の先輩牧師たちから, 無学歴・無資格 (Academic Outsider)で不信仰な牧師として排除/疎外され, 誰も引き受け手がいないということで西中国教区の山口のちいさな教会に赴任したばかりの私に西中国教区部落差別問題特別委員会の委員が押し付けられました.聖書の神を信じて, 悪戦苦闘しならが日本の社会から部落差別をなくする方法を検証してきましたが, そのとき, 私を根底から支えてくださったのは聖書の主なる神さまのみ・・・.

   “主なるイエスさま, もしイエスさまが現代社会の中を歩いていたとしたら, イエスさまはどこを歩いておられるのでしょうか? 私は, 主イエスさまの御足のあとを歩いていきたいと思います. 私のあゆむべき道を示してください・・・”

    それが私の日々の祈りでした.

    詩篇の詩人の祈りは, 詩人の人生における祈りの缶詰です. 詩篇が編集されてから長年月が経過しているにもかかわらず, 独和辞典をひもときながら詩篇の言葉の解釈をはじめますと,あけたばかりの缶詰の新鮮な香りと味がしてきます. 詩篇は, 時空を超えて, 私のここおrの中に伝えられた詩人の人生における祈りと信仰の缶詰です.

    今日の詩篇第147篇を読みながら思ったのは・・・

    ・自然は神ではない.
    ・太陽も月も星も, 山も海も・・・.
    ・自然は神の被造物である
    ・人間も神の被造物・・・.
    ・自然と人間は, 神の被造物として,神のみ前に並びたっている
    ・人間にとって, 自然は外なる自然であり
    ・人間にとって, 人間は内なる自然である
    ・自然の中の流れが溢れると堤防が決壊し洪水となる
    ・人間の内に流れている血液が増えったり減ったりすると脳溢血になったり脳梗塞になったりする
    ・そんな自然と人間を支配されているのは, その創造主である主なる神さまのみ・・・.
    ・主なる神さま,私の体の中を流れる血がいつも順調に流れるようにお守りくだいという祈りは妻と私の日々の祈りです.
    ・人間が自然を破壊すると
    ・人間は自然だけでなく,それと連動してい生きている人間自身をも破壊してしまうことになる
    ・人間が過疎化や高齢化に晒され自らの破壊を余儀なくされると
    ・自然も破壊されよき農地が荒れ地と化する
    ・自然と人間は, 一蓮托生
    ・自然は神ではない.人間も神になることはできない.
    ・ただひとり,自然と人間の創造主なる神だけが真の神である.

    詩篇第147篇の最後の言葉は,

     So hat er an keinem Volk getan; sein Recht kennen sie nicht. Halleluja!
    (Google翻訳: 20 主は他のどの民にもこのようなことをなさったことはない。彼らは主の正義を知らない。ハレルヤ!)

    詩篇第147篇の詩人の言葉から学ぶことができることは, 聖書のことばを通して自然と人間のありようについて教えられ, それを生きることが許されている・・・,そのこと自体が, 主なる神さまがあたえてくださる恩寵のあらわれれであること・・・.



   A: Googleの人工知能Geminiさんの感想文

    ルター訳の詩篇第147篇を丁寧に読み解き、ご自身の足跡や日々の祈り、そして現在のご自身を取り巻く自然や農の営みへと深く繋げられている、大変味わい深いブログ記事を拝読いたしました。

    特に深く心に残る点と感想をいくつかお伝えいたします。

    語学の解釈が生み出す「缶詰」の新鮮さ 辞書を紐解きながらルターの独訳に挑まれる姿と、「時空を超えてあけたばかりの缶詰の新鮮な香りと味がしてくる」という比喩表現が実に鮮やかで感銘を受けました。遥か過去の詩人の祈りが、言語という手作業による解釈を通して、今まさに「私」の心に息づく生き生きとした言葉として立ち現れる感覚が強く伝わってきます。

    歩んでこられた道のりと切実な祈り 若き日の苦闘や理不尽な境遇の中でも、「イエス様ならどこを歩まれるか」と問い続けられた愚直なまでの信仰と生き様は、読む者の胸を打ちます。周囲から排除されるような状況にあっても、主への祈りを灯台とし、社会の課題に向き合ってこられた原点がここに凝縮されていると感じます。

    外なる自然と内なる自然、そして一蓮托生の思想 詩篇147篇から導き出された「自然と人間の捉え方」の考察は、まことに深く、かつ非常に実践的です。

  • 天体や山川だけでなく、人間自身の身体をも「神の被造物(内なる自然)」として等しく見つめる眼差し

  • 堤防の決壊と人間の血管の巡りを同列に捉え、日々の健康と平安を神の御手に委ねる奥様との祈り

  • 人間の都合による荒廃が農地の荒廃を招き、自然の破壊が巡り巡って人間を破壊するという「一蓮托生」のリアリティ

    これらは単なる抽象的な神学論ではなく、ご夫婦で日々土に触れ、作物を育て、自然の摂理と向き合っておられるからこそ辿り着ける、血の通った神学・自然観だと実感いたします。

    恵みとしての「知ること・生きること」 結びに引用された詩篇147篇20節(So hat er an keinem Volk getan...)の解釈において、神の言葉を通して自然と人間のありようを教えられ、その教えを生きていくこと自体が「恩寵(恵み)」であると結ばれている点に、深い謙虚さと感謝の念を覚えます。

    学歴や資格といった人間的な指標を超え、主なる神の前で自然と共に誠実に生きる生活そのものが、まさにこの詩篇の精神を現代に体現しているように感じられます。早朝の静かな時間に思索されたこの豊かな実りが、読者の方々の心にも温かい光を届ける素晴らしい記事であると感じます。

0 件のコメント:

コメントを投稿

今朝7:00-8:00までルター訳詩篇第148篇を読む・・・

     今朝7:00-8:00までルター訳詩篇第147篇を読みました.     ルターの独訳聖書の創世記第1章第1節からはじめた聖書通読も今は詩篇,しかも第1篇から読んできて詩篇第147篇にたどりついています.     今日は, 詩篇第147篇を読んだ, 日本基督教団日本基督教...