午後, テレビの NHK ONE で, “癩予防法”廃止から30年が経過しても“癩病”に対する偏見も, “癩病”患者に対する差別もなくなっていない. どうすれば偏見と差別をなくすることができるのか, 切々と訴える番組でした.
今から55年前, 某医学研究所附属病院で臨床検査に従事していたとき, 乳児を抱えて診察に着ていた若い母親の髄液から頼菌を検出しました. 最初は結核菌だと思ったのですが,検査報告書に,“無数”と書き込みました. すると副院長から,“無数という文学的表現は何だ! 科学に従事しているのだから,きちんと数えろ!”と叱られました.私は, “チールネルセン法で染色して検出したのですが,何層にも積み重なって群生していますので正確に数えることができません”と答えると, 副院長は,“まさか・・・, 自分の目で確認する”といって検査室に来て顕微鏡を覗いていました. 副院長は “よく検出したな!” と一転褒めてくれましたが・・・, そのときの情景を,私のブログ “詩集 海は生きている”に“虫明の海” と題して掲載しています. その話, 頼予防法廃絶の運動の中で, 講師としてこられた方に, 質疑応答の時間に話をしますと, “そんな例もあるんだ!” と驚かれていました.
30年が経過しても差別はなくならない・・・.
その理由のひとつに, “頼ないし癩病という言葉は差別語である. 差別をなくすためには癩病と言う言葉に代えてハンセン氏病と言い換えなければならない” という主張がありました.日本基督教団の牧師の中にも, “私たちは差別していない.癩病という言葉を捨ててハンセン氏病と言う言葉を使っているから・・・” という主張をいたるところで耳にしました. 言葉を変えるだけでは差別意識を取り除くことは出来ません.“特殊部落”・“未解放部落”を“被差別部落”という言葉に置き換えても, 部落差別意識を払拭することも, 部落差別を解消することもできなかったのと同じく・・・.
私のブログ “詩集 海は生きている”の “虫明の海”を転載します.
虫明の海
高校3年生のとき
Sweden Covenant Missionで
洗礼を受けて2年目
青年会で
虫明の海に浮かぶ長島にある
キリスト教会を
訪問することになった.
その島には
"癩園" が2つあった,
ひとつは軽度の患者が "収容" されている光明園
もうひとつは重度の患者が "収容" されている愛生園
映画 "小島の春" の舞台となった場所だ.
私達が尋ねたのは愛生園ではなく
光明園だった.
そのときは梅雨の時期
長島に行く山道は狭く
シトシトと雨が降るなか
くるまに乗り合わせて
桟橋についた.
私は
"癩病" と診断された人々が
あの山道を歩いて
この桟橋までたどり着いたのかと思うと
胸が張り裂ける思いがした.
梅雨の雨で
土砂が流れ込んだ
虫明の海は
黄土色に濁って
渡し船がつくる航跡も
水の泡も黄色だった.
私達は
光明園の方々の暮らす
部屋を紹介してもらって
その話をお聞きした.
そして
日本基督教団光明園家族教会で
光明園のキリスト者と一緒に
礼拝を守った.
その礼拝堂の中に
20cmほどの高さの仕切りがあった.
癩病にかかったキリスト者と
そうでないキリスト者の間を
隔てる仕切り・・・.
簡単にまたいで乗り越える仕切りなのに
心理的には乗り越えがたい
大きな障壁であると感じた.
私は病院で臨床病理検査に従事していたが
私の職務は
一般検査と細菌学的検査だった.
あるとき
乳飲み子を抱いたおかあさんから
癩菌を検出した.
そのとき
あの虫明の海のことを思い出した.
このおかあさんも
乳飲み子と引き裂かれて
あの癩園に送られるのだろうか?
私はそのおかあさんの骨髄液から
癩菌を検出したことに罪悪感を覚えた.
心配して
看護婦長さんにそのことを話すと
婦長さんは
"それは違います.
あなたがはやく癩菌を見つけたことで
早期治療ができるようになったのですから
あのおかあさんはきっと助かります."
と言った.
"それでも, 長島に送られるのでは?"と
問いかけると
婦長さんは
"そんなことはさせません.
乳飲み子と引き離して
おかあさんを癩園に送るなんて
そんなこと
人間としてできません!"といって
医師に代わって
保健所と交渉して
通院治療を認めさせた.
その看護婦長さんは
ほんとうに
看護婦のなかの看護婦さんだった.
私が勤めていた病院の
臨床病理の先生は
"抗酸菌には2種類ある.
ひとつは結核菌
もうひとつは癩菌
どちらも同じ菌なので
結核予防の注射が癩病予防につながった.
日本から癩病患者激減した" と話していた.
そして
こんな荒っぽい説を展開した.
"体の中が癩になったのを結核といい
体の外が結核になったのを癩という" と.
日本基督教団の牧師になるために
鶴川学院農村伝道神学校に入る前
Sweden Covenant Missionの日本人牧師から
岡山のCLCで1年間奉仕して
岡山・鳥取の両県と兵庫県の西にある
すべての教会をまわって
尊敬できる牧師にであったら
その牧師が出た神学校に行ったほうがいいと
すすめられた.
そのキリスト教書店のCLC岡山店には
月1回
あの虫明の海を
船で渡って
光明園家族教会の信徒の方々がやってきて
信仰書や神学書を買って行かれた.
そのときいろいろな話を
お伺いすることができた.
神学校を卒業して
日本基督教団の牧師になったとき
どのような教会に派遣されるのか
私は
主なる神さまに
すべてを委ねることにした.
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
大変重く、そして深く考えさせられる素晴らしいブログ記事を読ませていただきました。
当時の情景、雨の虫明(むしあげ)の海の濁った色、礼拝堂の中のわずか20cmの仕切り、そして顕微鏡の向こう側にあった「命と生活」の重みが、静かな、しかし確かな熱量を持って伝わってきます。
読後、特に心に深く残った点をいくつかお伝えさせてください。
1. 言葉の置き換えと、根底にある差別意識
「言葉を変えるだけでは差別意識を取り除くことは出来ません」
このご指摘は、現代のあらゆる社会問題にも通じる極めて本質的な核心だと思います。「癩病」から「ハンセン病」へ、あるいは「特殊部落」から「被差別部落」へ。呼称を変えることで義務を果たしたかのように錯覚し、自らの内にある無意識の線引きや偏見から目を背けてしまう人間の弱さを、鋭く突いておられます。
言葉を綺麗に洗っても、心の中の「20cmの仕切り」が消えなければ意味がないのだというメッセージは、廃止から30年が経った今だからこそ、改めて社会に突きつけられるべき言葉です。
2. 医療従事者としての葛藤と「看護婦長さん」の姿
若き日の吉田さんが、乳児を抱えたお母さんの髄液から菌を検出した瞬間の描写には、息をのむような緊迫感があります。「早く見つけた」という科学的・医療的な正しさと、それによって「その親子の日常を奪ってしまうかもしれない」という社会的な恐怖の狭間で、強い罪悪感を覚えられたこと。その葛藤そのものが、吉田さんの人間味と誠実さを物語っています。
そして、そこに登場する看護婦長さんの毅然とした態度と言葉には、胸が熱くなりました。
「乳飲み子と引き離して おかあさんを癩園に送るなんて そんなこと 人間としてできません!」
制度や法律(当時の癩予防法)がどれほど絶対的な壁として立ちはだかろうとも、「目の前の人間を守る」という倫理を最優先し、保健所と渡り合った彼女の姿は、まさに真の医療人であり、人道主義者そのものです。このエピソードがあることで、暗い歴史の記録の中に、救いと人間性の光が鮮烈に浮かび上がっています。
3. 歴史の証言としての価値
臨床検査の現場で、実際にその目で菌を確認し、患者とその家族の人生の分岐点に立ち会った方の言葉には、テレビのドキュメンタリーだけではこぼれ落ちてしまう「生の息遣い」があります。
副院長が顕微鏡を覗き込んで一転して褒めたというエピソードも、当時の医療現場の空気感や、驚きをもって迎えられた事実がリアルに伝わりますし、後半の、CLC岡山店に船で通ってこられた光明園の信徒の方々との心の交流も、彼らが単なる「隔離された被害者」ではなく、深く思索し、信仰を持って生きていた一人の人間であったことを雄弁に伝えています。
この国が犯した過ちと、その中で苦悩しながらも必死に人間性を保とうとした人々の記憶。30年経ってもなくならない偏見に対して、「では、私たちはどこに目を向けるべきなのか」を、具体的かつパーソナルな経験から問いかける、非常に密度の高い、意義深い記事だと感じます。多くの読者の胸に、深く、鋭く刺さるはずです。