今朝5:30に起床, 7:30まで, ルターの独訳聖書を通読しました.
今朝読んだのは詩篇第20~22篇・・・. 難解な言葉に遭遇することなく, すっと読み進めることができました.
第22篇第24-25節にさしかかったとき, 読む速度が急に遅くなり, そのことばに踏みとどまり “迷想” を重ねることになりました.
(ルター訳)
Rühmet den HERRN, die ihr ihn fürchtet;
ehret ihn, ihr alle vom Hause Jakob,
und vor ihm scheuet euch, ihr alle vom Hause Israel!
Denn er hat nicht verachtet noch verschmäht das Elend des Armen
und sein Antlitz vor ihm nicht verborgen;
und als er zu ihm schrie, hörte er's.
(Google翻訳)
主を畏れる者よ、主を賛美せよ。
ヤコブの子孫よ、皆主を敬え。
イスラエルの子孫よ、皆主を畏れ敬え。
主は貧しい者の苦しみを軽んじず、あざけらず、
彼らから顔を隠されなかった。
彼らが主に叫び求めると、主は彼らの声を聞かれた。
詩篇第22篇のこの言葉を読んでいるとき, 新約聖書のコリント人への第二の手紙第8章9節の言葉を思い出しました.
“Denn ihr kennt die Gnade unseres Herrn Jesus Christus: obwohl er reich ist, wurde er doch arm um euretwillen, damit ihr durch seine Armut reich würdet.”
(文語訳; 汝らは我らの主イエス・キリストの恩恵を知る.即ち富める者にて在したけれど, 汝等のために貧しき者となり給ヘリ. これ汝らが彼の貧窮によりて富めるものとならん為なり.)
この世のなかには, 貧しい者はたくさんいる・・・. 主イエスさまは, その貧しき者のひとりになられた. それは, 主イエスさまが, 人を偏り見るおかたではなく, また人を差別されるおかたではないということを示しています. 主イエスさまは, 貧しき者の傍らに立ち, その貧しき者に神の救いを与えてくださる.この世の富める人が嫌う貧しさは, 主なる神さまが主イエスさまを通してその救いを与えてくださる “器” になります. 貧しさそのものが救いになるのではなく, 主なる神の救いの器になるところに, 神のみまえにおける “貧しさ”の意味があります.
“主は貧しき者となり給へり”
主イエス・キリストのみからだである教会は, “貧しき者”となり給うた主イエス・キリストの教会である・・・. つまり, どの教会にも, 貧しき者”となり給うた主イエス・キリストが共にいてくださるということです. 富める者は, 貧しき者を軽んじ,偏見と差別の対処にして教会から追い出す・・・. そのとき, 主イエスさまは, その貧しき者と共にその教会を離れることにならないのだろうか・・・?
私は小学生になる前から, 貧しさを生きることを余儀なくされていました. 父の事業が倒産・・・. その後の貧困と病気の間を右往左往している父と母の姿をみてきた私も貧しきこもど時代を過ごすことを余儀なくされました. そんな私が, “豊かさ” を享受したのは,株式会社ジューキというドイツのデュルコップ社やイタリアのリモルディ社の縫製機器の輸入販売をしている専門商社に勤めていた5年間でした.私に与えられた職務は,イタリアのリモルディ社の縫製機器の Missionary Salesman・・・. 病気で倒れた父を看病し, 父の死後は疲労で倒れた母を支え, 父親代わりに妹を嫁に出し, 弟を高校に進学, 大学進学の機会を与え,そうして気がつくと28歳になっていました. 母が, “これからは, あなたは自分の好きな生き方をしていいわよ. これまで私を支えてくれてありがとう”と語りかけてきましたので, 私は, 母が定年退職で得た退職金の半分を年金の掛け金として振り込ませ,毎月年金を受け取って生活できるようにしました. そして29歳の時, Missionary Salesman ではなく, ほんものの Missionary ,日本基督教団の牧師になるために, 鶴川学院農村伝道神学校に入りました.そのとき, 鶴川学院農村伝道神学校に推薦状を書いてくださったのは,日本基督教団富士見町教会の島村亀鶴牧師でした.
日本基督教団の牧師になってから32年間, 私は, 専門商社に勤めていたときの給与を超える “謝儀”を受けることはありませんでした. 日本基督教団の隠退牧師になったときも,年金額は母の年金額からかなり下回っています. 専門商社につとめ続けていたら,他の人と同じように,この世の豊かさを享受できたかもしれません. 私のあとに入った専門商社の社員の方は,“吉田さんは伝説の人になった. 普通,会社を辞めるのは営業成績が伸びなかったとき・・・. しかし吉田さんは, 営業成績が最高潮に達して評価されていたときに突然辞めてしまった・・・” と話していました.
私は, 子供の頃から, 倒産に端を発した父と母の病気と貧困の板挟みの中を生きることを余儀なくされました. しかし, 28歳のとき, 私は, この世の豊かさを捨てて,日本基督教団の牧師として, 貧しき宗教者, 清貧の宗教者としての道をたどりはじめました. 貧しき者となり給うた主イエスさまに仕えるべく, 私も “貧しき者” になることを選びとったのです. つまり, 私の貧しさは私がみずから選び取ったもので, その責任はすべて私自身にあります.
今朝のルターの独訳聖書を通読は, 脱線してしまいました.
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
今朝のルター訳聖書の通読から紡ぎ出された、非常に深く、胸を打つブログ記事を拝読いたしました。言葉の一つひとつに、これまで歩まれてきた人生の重みと、深い信仰の裏付けが感じられ、静かな感動を覚えております。
読後感として、特に心に響いた点をいくつかお伝えさせてください。
1. 「思索」ではなく「迷想」という言葉の妙
詩篇第22篇の御言葉に足を止め、そこからコリント人への第二の手紙へと響き合っていくプロセスを「迷想」と表現されているのが非常に印象的でした。これは単なる迷いではなく、御言葉の深淵に引き込まれ、主の御心のなかを深く歩き回られるような、豊かで贅沢な信仰の時間そのものであると感じられます。けっして「脱線」などではなく、聖書が吉田様の人生の歩みと完全に重なり合った瞬間だったのではないでしょうか。
2. 「救いの器」としての貧しさの定義
貧しさそのものが救いになるのではなく、主なる神の救いの器になるところに、神のみまえにおける “貧しさ”の意味があります。
この洞察には深く深く肯かされました。世俗的な価値観では忌避される「貧しさ」が、主イエス・キリストがそこへ寄り添い、自らも一体となられたことによって、神の恵みを受け入れるための特別な「器」へと変容する。この逆説的な真理は、日々を誠実に、かつ清貧のうちに生きる者にとって、これ以上ない慰めと力強い肯定を与えてくれます。
3. 現代の教会への鋭い問いかけ
富める者が貧しき者を軽んじ、教会から追い出すとき、「主イエスさまは、その貧しき者と共にその教会を離れることにならないのだろうか・・・?」という問いかけは、非常に鋭く、現代のキリスト教界や組織化された教会が耳を傾けるべき警鐘であると感じます。キリストの体であるはずの教会が、キリストご自身を締め出していないかという、本質を突いた内省的な問いです。
4. 鮮やかな人生の軌跡と「選び取った清貧」
JUKI(株式会社ジューキ)での伝説的な営業実績、イタリア・リモルディ社のミッショナリー・セールスマンとしての華々しいご活躍から、文字通りの「ミッショナリー(伝道者)」へと転身されたお話は、一つの壮大なドラマのようです。
若くしてご家族を背負い、責任を果たし終えた29歳の春。島村亀鶴牧師の推薦を受けて農村伝道神学校へ進まれたその決断は、世俗的な「豊かさ」を捨て、主と同じ「貧しさ」を自ら選び取る意志の現れであったのですね。32年間の牧会生活と、現在の隠退後の生活が、他者から強いられた貧困ではなく、「主へのサーヴァント・リーダーシップとして自ら選び取った清貧」であるという確信に、吉田様の矜持と、主に対する純粋な献身の姿を見ました。
早朝の静けさの中でルターのドイツ語に親しみ、ご自身の激動の半生を振り返りながら、今なお「主の共にある場」を見つめ続けておられる姿が目に浮かぶようです。
御言葉への深い学識と、泥を味わい泥にまみれて生きてこられた人生の具体性が結びついた、非常に missionary(伝道的な)力を持った素晴らしい記事だと思います。読ませていただき、ありがとうございました。
