今朝6:00に起床, 雨音が激しかったので, 8:30までルターの独訳聖書を通読しました.
今朝読んだのは, 第5章25節から第6章13節まで・・・.この箇所は, 預言者イザヤの召命物語といわれている箇所です.
イザヤが, 主なる神の預言者として召されるとき経験したできごとは想像を絶するものです. 預言者イザヤが経験したようなできごとは, ほとんどの人は経験することができないのではないかと思います.
日本基督教団の牧師になるために, 鶴川学院農村伝道神学校に入ってから4年間, 卒業したあと日本基督教団の牧師になってから32年間, そして日本基督教団の隠退牧師になってから今年で14年目, その間, 私は誰からも, なぜ聖書の神をしんじるようになったのか, なぜ日本基督教団の牧師になろうとしたのか, 訊かれたことは一度もありません. Sweden Covenant Missionの宣教師から洗礼を受ける前までは, 何度も問われてきたことではありますが・・・.
不思議といえば不思議です.
高校生になったとき, 私は, 高校の図書室や通学路にある公民館の図書室で, 聖書とキリスト教文学関連の本を借りて読み, 高校2年生の2学期, 聖書の神を真の神として信じて生きることを決め, 高校2年生の3学期, 高校の裏山の龍王山の裾野にある 日本屋敷のSweden Covenant Missionの教会を尋ね, 高校3年の3学期12月5日の第一主日に宣教師から洗礼を受けました.
そのときの私は, “所与の人生を引き受けて生きる”と決断していました.
“所与の人生を引き受けて生きる”, そのことを決断させたのは, 新約聖書の次のことばでした. 別の箇所にあることばをひとつにして解釈していました.
Kommt her zu mir, alle, die ihr mühselig und beladen seid; ich will euch erquicken.
Will mir jemand nachfolgen, der verleugne sich selbst und nehme sein Kreuz auf sich und folge mir.
(Google翻訳:
すべて疲れた者、重荷を負っている者は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしについて来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい。)
主イエスさまは, この2つのことばを通して私にこう語りかけてくださったのです.
“人生の重荷を負うて苦労しているものは, 私のもとに来て, その荷を下ろしなさい、あなたをやすませてあげよう.休んで元気を取り戻したら, その重荷を, 愛する者のために負い直しなさい.自分を捨て, あなたの十字架, 主が与えてくださったあなたの人生の重荷を背負って, 私に従ってきなさい!”
それが私が “所与”という言葉で考えていた人生の生き方です.
私が, ルターの独訳聖書を通読はじめたとき, 徐々に, ルターの独訳聖書の他に並べていた本は,
・文語訳聖書とNRSV・NEBなどのEnglish Bible
・Bible Concordance コンコルダンス 聖書索引
・Metzger の The Oxford Guide to People & Places of The Bible
・Metzger の The Oxford Companion to The Bible
・The Oxford Dictionary of The Christian Church
・The Oxford Companion to Christian Thought
・Oxford Bible Atlas Second Edition
・An Introduction to The Theology of Karl Barth
です. Metzger は, 鶴川学院農村伝道神学校で勉学していたときの教科書(“新約聖書の本文研究”)の著者です.Oxford Bible Atlas は旧約聖書緒論の参考書でした.
高校3年生の3学期, 洗礼を受けたとき, 宣教師は, みんなの前で, “吉田さんを, Sweden のウプサラ神学校に留学させて, 帰ってきたら神学校の教授にしよう”と話していました, そのとき高学歴・高資格の教会役員たちは猛反対していました.“この教会には, 高学歴・高資格を持つ由緒正しい家柄の師弟が多い. 彼らを差し置いて, どこの馬の骨かわからない貧乏人の息子をSwedenに留学させることは許されない”と.洗礼を受けた次の年の1月5日, 地方公務員をしていた私の父は脳梗塞で倒れ, 半年後には再起不能を言い渡されました.私は大学進学を断念して父を看病する母と妹といっしょに苦楽を共にすることにしました.まだ中学生の弟がいましたから・・・.主なる神さまは, 教会役員たちの要望を聞いてくださったのでしょう.しかし, 私は, 神が与えてくださった “所与の人生”を生きることをやめませんでした.主イエスさまの言葉だけが, 闇の中を生きる私を支えてくださる光でしたから・・・.
Googleの人工知能Geminiさんの感想
早朝からの強い雨の音を背景に、独訳聖書を開きながら自らの歩みを静かに振り返られるお姿が、行間から深く伝わってまいりました。非常に味わい深く、心に重く響く素晴らしいブログ記事です。
読ませていただき、特に感銘を受けた点をいくつかお伝えさせてください。
1. イザヤの召命と「所与の人生」という応答の対比
イザヤが神の威光と圧倒的な体験の中で召されたのに対し、筆者ご自身が歩んでこられた道は、圧倒的な体験というよりも「目の前にある自らの十字架(所与の人生)を静かに引き受ける」という、極めて具体的で現実の生に根ざした応答であったことが鮮やかに描かれています。
マタイによる福音書の二つの御言葉(11:28 と 16:24)を合わせ、「荷を下ろして休んだら、愛する者のためにその重荷を負い直し、自分の十字架を背負って従う」と捉え直された高校時代の決断は、単なる宗教的感傷ではなく、その後の苛酷な現実を支える強靱な「生き方の骨格」となっていたのだと感じます。
2. 独訳聖書を囲む書斎の風景と学術への誠実さ
ルターの独訳聖書を中心に、文語訳や英語聖書、コンコルダンス、さらにはメッツガー(Metzger)の著作やオックスフォードの辞典類、バルト神学の導入書などを並べて読書される風景の描写は、長年にわたる学究的で誠実な聖書探求の深さを物語っています。神学校時代の学びが、いまも日々の御言葉との対話の中で豊かに息づいていることが伝わってきます。
3. 試練の中で貫かれた「御言葉への信頼」
高校3年生での洗礼と留学の話を巡る周囲の反応、そして直後に訪れたお父様の病と進学断念という出来事は、あまりにも重く切ない試練です。人間的な言葉や状況だけに目を向ければ絶望に呑み込まれてしまいそうな闇の中で、しかし「主イエスさまの言葉だけが闇の中を照らす光だった」として「所与の人生」を愚直なまでに歩み続けられた姿には、胸を打たれるものがあります。
教会役員の言葉や環境の厳しさを「主なる神さまが聞き届けてくださったのだろう」と受け止めつつも、決して生きることを諦めず重荷を負い直した姿勢こそが、その後の40年を超える伝道・牧会と、現在の地道で豊かな暮らしへと結びついているのだと強く感じさせられます。
静かな早朝の雨音の中で綴られたこの文章は、ご自身の歩みに対する誠実な告白であり、同時に同じように人生の重荷を負って生きる多くの人々にとって、静かでありながら確かな光となるような温かみと力強さに満ちています。
読了後、深い感銘とともに、どこか清々しい余韻が心に残る非常に美しい文章でした。
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