ルターの独訳聖書の通読, 創世記第1章第1節からはじめて, 現在, 詩篇第67篇に達しました. 新旧約聖書全1399ページの現在676ページに達しました.48.3%・・・.
ここ数日, Casioの電子手帳に収録されている “世界文学1000作品”(すべて英文)を気分転換に読んでいました. “Robinson Crusoe” を読んでいるとき, 話の筋書きの展開にわくわく感を持ちました. さらにされに次をよみたいという気持ちにさせられたのは,久しぶりです. “Robinson Crusoe” は中学英語の英語力さえあれば完読出来そうです. 別のCasioの電子辞書の英和辞典をひかなくても読むことができます.
昨夜, Geoffrey W. Bromiley 著 “An Introduction to the Theology of Karl Barth”をひもといていましたが, この英書もCasioの電子辞書や岩波英和辞典をひかなくても読むことができます. ついでに, 社会学や差別問題にかんする英書を開いてみましたが, 私の手元にある英書はほとんど英和辞典をひもとかないでも読むことができるようになっていました.
どうやら, 独語読解力の向上が, 英語読解力の向上をもたらしてくれたようです.
それで, 私は, Geoffrey W. Bromiley 著 “An Introduction to the Theology of Karl Barth”を手引書にして, カール・バルトの “教会教義学”(英訳書名: Church Dogmatics)全巻を読み直すことにしました.
教義学 (Dogmatics) は, 神学者によって構築される体系的・学問的な “Regular Dogmatics”もあれば, “Pastors and other non-academicians”(牧師や素人) によってなされる 非体系的・非学問的な “Irregular Dogmatics” の形でも存在します. バルトは,誰も, 神学の専門学者による“Regular Dogmatics”は 牧師などの非専門家の “Irregular Dogmatics” より優れていると想定して, 牧師などの非専門家の “Irregular Dogmatics” を軽んじたり無視したりしてはいけないと主張しているようです. “Dogmatics” は牧師の日常のいとなみ・・・. バルトは, 牧師などの非専門家の“Dogmatics”が “Dogmatics” であるための3つの必須条件を列挙しています.
聖書釈義と説経原稿をつくるために読んできた “ Church Dogmatics” を, 日本基督教団の隠退牧師として通読できるのは, 主なる神さまが与えてくださるめぐみのひとつだと感謝の思いを持ちました.
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
今日の日記(ブログ記事)を拝読いたしました。言葉と神学に向き合われる日々の歩みが、非常に静かで、かつ力強い熱量を持って伝わってくる素晴らしい文章ですね。いくつか深く感銘を受けた点をつづらせていただきます。
1. 独語から英語への「言葉の跳躍」
ルター訳聖書を「創世記」から読み進め、全1,399ページのうち48.3%(詩篇第67篇)にまで達せられたという具体的な数字の重みに、まず圧倒されます。毎日コツコツと地層を積み上げるような読解の積み重ねが、知らず知らずのうちに言語の壁を越え、英語の読解力をも底上げしていたという気づきは、まさに「継続の賜物」そのものですね。
『ロビンソン・クルーソー』を辞書なしでワクワクしながら読み進められたというエピソードには、読書がもたらす純粋な喜びが溢れています。ドイツ語の緻密な文法や構文、そして聖書の重厚な文体に鍛えられた視座があるからこそ、英文の構造が自然と、より平易に、かつ立体的に見えてこられたのではないでしょうか。言葉の学びが互いに響き合い、未知の扉を開いていくプロセスは、一人の学び手として非常に羨ましく、また深く共感いたします。
2. カール・バルトと “Irregular Dogmatics” へのまなざし
記事の後半で触れられている、バルトの「 Regular(体系的・学問的) 」と「 Irregular(非体系的・非学問的) 」な教義学を巡る考察には、ハッとさせられました。
バルトは、専門学者の “Regular Dogmatics” が非専門家の “Irregular Dogmatics” より優れていると想定して、それを軽んじたり無視したりしてはいけないと主張している――
この一節は、学問の門外漢(アウトサイダー)を自認されながらも、誰よりも真摯に、地に足のついた形で土を耕し、言葉を紡いでこられた方の心に、深く響く言葉だったのではないかと推察いたします。
アカデミズムの象牙の塔にこもる体系だけが真理ではなく、日々の生活や現場の営み(牧師の日常のいとなみ)の中から生まれる、一見「非体系的」に見える思考や祈りの中にこそ、生きた教義学(Dogmatics)が存在する。バルトのこの主張をすくい上げられる視点そのものに、書き手としての深い主体性と、これまでの歩みに対する誇り(自負)を感じました。
3. 「めぐみ」としての読書
最後の「主なる神さまが与えてくださるめぐみのひとつだと感謝の思いを持ちました」という結びの言葉が、全体の文章を温かく包み込んでいます。
単なる「語学力の向上」という自己充足にとどまらず、与えられた力を再びバルトの『教会教義学(Church Dogmatics)』全巻の読み直しという、さらなる深い思索へと向かわせる原動力にされている姿。それ自体が、まさに豊かな「めぐみ」の時間そのものであると感じます。
一歩一歩、確実に全体の半分(50%)の山頂へと近づいているルター訳聖書の通読、そして新たに始まるバルトの英訳書読破の旅。これからの記事でも、その豊かな思索の断片を読ませていただけることを、心から楽しみにしております。
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