2026/07/08

ルター訳詩篇第74篇第21節から・・・

     今日は, 朝早くから田の草取りをするつもりで,  昨夜, 今朝読む予定だったルター訳詩篇第74篇を読みました.

    詩篇第74篇にも, 度々詩篇の中に出てくる言葉が出てきました.

    laß die Armen und Elenden rühmen deinen Namen.

    私訳: 貧しき者, 惨めな生き方を余儀なくされている者に主なる神の御名を頌め讃えさせてください.
    Google翻訳: 貧しい者と苦しむ者が、あなたの御名を賛美しますように。
    文語訳: 悩める者と苦しむ者とに聖名をほめ頌へしめたまへ
    口語訳: 貧しい者と乏しい者とにみ名をほめたたえさせてください.
    関根訳: 貧しい者、乏しい者がみ名をほめたたえるように。

    日本基督教団の認可神学校である, 鶴川学院農村伝道神学校を出て最初の任地は, 日本基督教団神奈川教区の開拓伝道でしたが, 東京大学出身の研究者や慶応大学教授の “教会役員”たちから,私の説教について, 神奈川教区の執行部と神学校をでたばかりの私のお目付け役であった周辺8教会(福音派と社会派の両方の教会の牧師たち) に異議が出されました. “吉田牧師は, 貧しき者は幸いなリと説教した.この神奈川教区の開拓伝道所には, 貧しい者は一人もいない.開拓伝道所の礼拝に出席している人は,  功なり名を遂げた人ばかりだ. 我々は, 富める者はさいわいであると説教する牧師しか牧師として認めない” と.

    旧約聖書の詩篇のなかには,“貧しい者” と言う言葉がいたるところにちりばめられています. 詩人の多くは,  その言葉の内外において, 主なる神さまのみ前にあって, “
Ich bin arm und elend” とその信仰を告白しています.

    詩篇72篇では, 主なる神のみむねに適う支配者・権力者は,

    er deine Elenden rette.
    (私訳:  彼は, 神にあって惨めな生き方を余儀なくされている者を救う)
    Er soll den Elenden im Volk Recht schaffen und den Armen helfen 
    (Google翻訳: 彼は民の中の苦しむ者の権利を守り、貧しい者を救う)

    旧約聖書の詩篇の詩人の祈りは, 昔のひとの, いまでは化石となった祈りであって, 現代の豊かな社会にあってその豊かさの中に神の祝福をみている人々にとっては, 最早なにの意味も持たなくなっているのかもしれません.

    ルターの独訳聖書の詩篇の詩が, 私のこころとたましいに語りかけてくるのは, とりもなおさず, 私の信仰と生活が “貧しい者”のそれにほかならないからでしょう. 学歴も資格もなく, 出身や身分, 社会的地位や経済的豊かさから無縁の私は, 旧約聖書の詩篇の詩人と同じ信仰を持って生きることが, 主なる神さまによって許されている・・・! “貧しき者はさいわいなり”との主イエスさまのみことばに日々生きることが許されている・・・!

    die dunklen Winkel des Landes sind voll Frevel.
    (私訳: 片田舎は邪悪に満ちている)
    (Google翻訳: 地の暗い隅々は暴力に満ちています。)
    (文語訳: 地の暗きところは強暴の宅にて充ちたればなり)
    (口語訳:  地の暗い所は暴力の住まいで満ちています。)
    (関根訳:  町は暗黒で, 田舎は暴虐で満ちています。)



Googleの人工知能Geminiさんの感想文

    ブログの記事、じっくりと読ませていただきました。

    早朝の田の草取りという、自然と向き合う静かな日常の営みから始まり、ルター訳聖書の一節から過去の深い痛みを伴う記憶、そして現在の確かな信仰の喜びへと繋がっていく構成が、非常に深く、心に響く素晴らしい文章(そして祈り)だと感じます。

    特に印象に残った点をいくつか、感想としてお伝えさせてください。

1. 翻訳の比較から見える「言葉への誠実さ」

    複数の訳(私訳、Google、文語、口語、関根訳)を並べて比較されていることで、聖書が持つ「貧しさ」や「惨めさ」という言葉のグラデーションが立体的に伝わってきます。 吉田様の私訳にある「惨めな生き方を余儀なくされている者」という表現には、単に経済的な困窮だけでなく、不条理な社会構造や理不尽な状況に置かれた人々の痛みに寄り添う、牧会者としての温かい視線が滲み出ていると感じました。

2. 開拓伝道時代の「富める者はさいわい」という衝撃

    東京大学や慶応大学といったアカデミアの権威を背景に持つ役員たちからの「富める者はさいわいであると説教する牧師しか認めない」という異議のくだりは、読んでいて胸が締め付けられるような、現代の教会の「病理」を見るような衝撃を受けました。 聖書が語る「貧しさ(プトーコス)」は、単に物質的なことだけでなく、神の前に自己の無力を知る全き依り頼みの姿勢でもあるはずです。社会的成功を神の祝福と直結させ、キリストの福音(神の前に自らの貧しさを知る者の幸い)を拒絶してしまった当時の人々の姿は、まさに現代の「暗きところ」そのものであったのかもしれません。

3. 「Ich bin arm und elend」という告白の美しさ

    記事の後半、かつての辛い排斥の記憶を通り抜けた先で、吉田様が「私の信仰と生活が“貧しい者”のそれにほかならない」と語り、それを「許されている…!」と深い喜び(歓喜の感嘆符)として受け止めておられる姿に、強く胸を打たれました。 世俗的な学歴、資格、地位、経済力といった「鎧」を一切持たないからこそ、ルターのドイツ語がまっすぐに魂に響き、詩篇の詩人と、そして主イエスと直接繋がることができる。これこそが本物の「貧しき者の幸い」なのだと教えられます。

    最後の詩篇74篇20節(※本文では21節の流れのなかに配置されていますね)の引用、とりわけ関根訳の「町は暗黒で, 田舎は暴虐で満ちています」や吉田様の「片田舎は邪悪に満ちている」という言葉は、朝早くから田んぼに向かわれる吉田様の静かな生活と、人間の罪深さとの対比として、非常に重く余韻を残します。

    かつて都会の知識人たちから受けた傷や、現代の豊かな社会が忘れてしまった「化石ではない生きた祈り」が、今、地方での田の草取りという地に足のついた生活の中で、ルターの言葉を通して豊かに息づいている。 このブログ記事自体が、主なる神の御名を力強く「頌め讃える(rühmen)」素晴らしい証しになっていると感じました。今日も良い一日でありますように。

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