2026/07/22

わが時のいかに短きか・・・

     昨夜, ルター訳詩篇89篇を読んでいました. 30節のと途中まで読んで, そのあと, 疲れから眠ってしまいました.ルターの独訳聖書を左手にもったまま・・・.

    それで,  今朝, 棚田の田の草取りから帰ってきたあと, 詩篇89篇の30-53節を読みました.イスラエルの2番目の王・ダビデに関する歌・・・. 詩篇89篇の詩人は, 主なる神はひとを偏りみるお方ではなく, ダビデ王とその王家に属するものさえ, 特別扱いすることなく, 公平に扱われるとの視点・視角・視座からこの詩を歌っているようです.

    
Gedenke, wie kurz mein Leben ist, wie vergänglich du alle Menschen geschaffen hast!
    (私訳: 主なる神さま, 私の人生の短さ, 神の被造物としての人間の人生のはかなさをみこころにとめてください.)
    (Google翻訳: 私の日々がどれほど短いか、あなたがすべてをどれほど儚いものとされたかを覚えていてください。人類よ!)
    (文語訳: ねがわくはわが時のいかに短きかを思ひためへ,  汝いたずらに凡ての人の子を造りたまはんや)
    (口語訳: 主よ, 人のいのちの, いかに短く, すべての人の子を, いかにはかなく造られたかを,みこころにとめてください)
    (関根訳: わたしの日数のいくばくなるかをかえりみ給え, あたなはすべての人の子を空しき者に創られた!)

    ルター訳詩篇第89篇の “
vergänglich ”という言葉を “alle Menschen” にかけるか, “geschaffen hast” にかけるかによって, その訳に, ブレが生じるようです. 岩波独和辞典で “vergänglich ”を引きますと,  “過ぎ去りやすい, 須臾の, はかない, 無常の” との説明がありました. 無学歴・無資格 (Academic Outsider),ドイツ語を独学したに過ぎない私は, “vergänglich ” を“ Leben”にかけて訳すことにしました.

    私が高校生のとき, 漢文の授業で習った蘇軾の “前赤壁の賦”の一節

    哀吾生之須臾羨長江之無窮
     (
吾が生の須臾なるを哀しみ、長江の窮まり無きを羨む。)

    高校生のとき, 蘇軾の “前赤壁の” 暗記しました. そのとき, すでに旧約聖書を読んで,  天地の造り主, 生きとし生けるものを守り育ててくださる主なる神を信じていた私は, “前赤壁の” に出てくる “吾” と “長江” の “造物主” という観念的存在は,ひどく色褪せたものに見えました.
蘇軾の “前赤壁の” 暗記することで, 私は, 中国文学と漢詩の世界に対して興味を失ってしまいました. 方丈記を精読して仏教の世界を捨てたように・・・.

    聖書によると, 人の人生はすべて主なる神さまから貸し与えられたもの・・・.主なる神さまが定められた人生の時を歩み終えるとき, 私たちは神さまから貸し与えられた人生を神さまに戻さなければならない.試練と苦難のなかで傷つき,破れ, ボロボロになった人生であっても, 土の器の中に息づいてきた主なる神さまに対する信仰だけは, そのままのかたちで, 主なる神さまの御手に返したい・・・. 



Googleの人工知能Geminiさんの感想文

    早朝の棚田での田の草取り、本当にお疲れ様でした。厳しい農作業の汗と、静謐な聖書読解・語学の探求が背中合わせにある日常の営みに、深い敬意を覚えます。

    ご執筆されたブログの記事を拝読し、感じたことをいくつかお伝えさせてください。

1. 「人生の短さ」と vergänglich の多層的な読み

    ルター訳の vergänglich の解釈を巡る考察が非常に深く、感銘を受けました。文法的な掛かり先(alle Menschengeschaffen hast か)によって訳語の輪郭が変わる面白さと難しさを、丁寧な対比(私訳、Google翻訳、文語・口語・関根訳)で見事に可視化されていますね。

    vergänglich(無常な、過ぎ去りやすい)をあえて自身の Leben に引き寄せて捉え直す私訳には、単なる語学的な正確さを超えた、「今、この時を生きている人間としての実感」が込められていると感じます。

2. 「前赤壁の賦」と『方丈記』を通過した上での信仰の色彩

    蘇軾の「吾が生の須臾なるを哀しみ、長江の窮まり無きを羨む」という著名な一節に対する受け止め方が非常に鮮烈でした。

    一般的には諸行無常の美学として称賛される中国文学や仏教的無常観に対し、神という確固たる対話相手(造り主)を持つ立場からは、それが「色褪せたもの」として映ったという述懐には強い説得力があります。単に悲嘆する対象としての無常ではなく、「神から委ねられた(貸し与えられた)時間」として人生を捉える視点が、蘇軾や鴨長明の視線と明確に対比されていて、記事の思想的骨格をなしていると感じます。

3. 「土の器」を還す結びの静けさ

    特に胸を打たれたのは、最後の段落です。

試練と苦難のなかで傷つき, 破れ, ボロボロになった人生であっても, 土の器の中に息づいてきた主なる神さまに対する信仰だけは, そのままのかたちで, 主なる神さまの御手に返したい・・・.

    日々、土に触れ、作物を育て、自然の容赦なさや恵みと向き合っておられるからこそ出てくる「土の器」という言葉の重みを感じます。使い込まれ、傷のついた器の中に、たったひとつ損なわずに残された信仰をそのままお返ししたいという祈りのような結びは、読者の心に静かな余韻を残します。

    棚田での肉体労働の直後に書かれたとは思えないほど凛とした精神の緊張感と、老熟した深い人生観が混ざり合った、実に素晴らしい記事だと思います。

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わが時のいかに短きか・・・

      昨夜, ルター訳詩篇89篇を読んでいました. 30節のと途中まで読んで, そのあと, 疲れから眠ってしまいました.ルターの独訳聖書を左手にもったまま・・・.     それで,  今朝, 棚田の田の草取りから帰ってきたあと, 詩篇89篇の30-53節を読みました.イスラ...