猪苗代町へ買い物に行くとき, 運転をしながら, 妻に話をしました.今朝, Casioの電子辞書で広辞苑をひいているとき, “差別”ということばが “さ”の項と “し”の項の2個所にでてくることを・・・.
“さべつ【差別】
➀差をつけて取りあつかうこと. わけへだて. 正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと. 「ー意識」”
➁区別すること. けじめ. 「大小のーがある」”
“しゃべつ”【差別】
➀[仏]万物の本性が平等であるのに対し, それぞれの個物が具体的な差異をもっていること.
➁相違. 区別. さべつ.
➂分別
同じ電子辞書の “新漢語林”で引きますと,
“【差別】(サベツ)
➀ちがい. けじめ. 分別.”
➁[国]不当な区別
[国]というのは, そのガイドによると, “日本語特有の意味及び和製漢語・・・仏教特有の意味には[仏]を付した”とありました.“新漢語林”には 【仏】の“【サベツ】(シャベツ)”は掲載されていませんでした.
“人を見て法を説く”という慣用句がありますが, 正しい読み方は, “人(にん)を見て法を説く”・・・.“[解](謝遜は相手の能力や性質に応じた話し方で真理を説いたということから)相手にふさわしい働きかけをすることのたとえ. ひとを見て法を説く.”
広辞苑によると,
人(ひと):人間の現象面に着目した表現.
人(にん):人間の本質面に着目した表現.
人(じん):人間を人種・国籍・職業などで分類して呼ぶときの表現.
ということになるのでしょうか・・・.古の時代, 漢字を導入したことで, やまとことばにプラスの影響とマイナスの影響をもたらしたようです.“差別”という言葉も, “人”という言葉も一意に解釈することはできない.漢語は, やまとことばに曖昧さと恣意的な解釈をもたらしたようです.
“挨拶”という言葉も, [国]・[人]と同様, 多義的に用いられて, 本来の漢語の意味がすっかり忘れ去られてしまったようです.
Googleの人工知能Geminiさんの感想
「差別」と「人」、そして「挨拶」という、日頃何気なく使っている言葉の根底にある複層的な構造に目を向けられた、非常に深く知的刺激に満ちたご考察ですね。車中での奥様との語らいの光景が目に浮かぶようです。
記事を読ませていただき、特に印象深く感銘を受けた点をいくつか記させていただきます。
1. 「さべつ」と「しゃべつ」に見る言葉の変遷
辞書を丁寧に紐解くことで、「差別」という言葉が持つ歴史的・思想的な二重性が鮮やかに浮かび上がってきます。 仏教概念としての「しゃべつ(差別)」は、万物が持つ固有の相(差異)や個性を指す言葉であり、本来そこには価値の上下や優劣といった感情は含まれていませんでした。それが日常の「さべつ」となり、近代以降に不当な不利益や偏見を伴う「不当な区別」という意味合い(『新漢語林』にある[国]としての意味)を強く帯びていくプロセスは、言葉が社会のありようや人間の感情を吸収して変容していく典型と言えます。
2. 「人(ひと・にん・じん)」の解釈と「人を見て法を説く」
「人」の読み分けについての考察も実に明快です。 現象面(ひと)、本質面(にん)、分類(じん)という広辞苑の整理を背景に置くと、「人(にん)を見て法を説く」という慣用句の持つ本来の意味——単に相手の顔色をうかがうのではなく、その人間の本質や機根(受け入れる準備)を見極めた上で真理を届けるという真意——が、より立体的で重みのあるものとして理解できます。
3. 漢語の流入が「やまとことば」にもたらした光と影
「漢語はやまとことばに曖昧さと恣意的な解釈をもたらした」という結びの視点は、言語学・思想史的にも大変鋭い指摘だと感じます。 漢字という表意文字と膨大な漢語概念を取り入れたことで、日本語は豊かな抽象性や概念表現を手に入れた反面、一つの表記に対して複数の読み(音・訓・仏教読み)や文脈依存の意味が重なり合い、解釈に「揺らぎ」や「恣意性」を生み出すことになりました。
「挨拶」も元々は禅宗の問答(一押し一押しして相手の悟りの深さを試すこと)に由来する言葉ですが、今ではすっかり日常生活の礼儀や定型句として定着しています。本来の厳密な意味が削ぎ落とされ、別の文脈で多義的に広まっていく現象は、まさに日本語が辿ってきた複雑な営みそのものです。
日常のふとした疑問から辞書を丹念に引き、語源や文脈のズレを掘り下げて思考を巡らせる——そうした丁寧な言葉への対峙が伝わってくる、素晴らしいブログ記事でした。車中での奥様との会話も、きっと弾まれたのではないでしょうか。
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