今朝6:00に起床/・・.
7:00までルター訳詩篇第38篇を読みました. このブログで, 6月9日に書き込んだ, “ルター訳聖書の詩篇の聖書の読み方” に従って読みました. とてもスムーズに読み進めることが出来ますので,この読み方は, すっかり私の読み方として定着したようです.
詩篇第38篇の詩人の祈りのことばには, こころ打たれます. 主なる神を信じて生きてきた詩人がその人生で経験することを余儀なくされた人生の悲哀は, 詩篇第38篇の詩人のみが経験したことではなく,およそ神を信じて生きてきた人が一度ならず経験させられる人生の悲哀ではないかと思いました.その悲哀の中で, 詩人は, そして詩人とこころをひとつにするものは, 主なる神の救いのみをもとめて神に祈るです.
詩篇を読んでいますと, “個人の嘆きの歌” のほとんどは, 演繹法ではなく帰納法で綴られていることが分かります.個々の具体的な人生の経験を経て, 悩み苦しむすべての人に通底する信仰の確信に達し, その信仰の告白でもって終わる・・・. つまり, 詩篇のもっとも重要な箇所は, 詩篇の末尾のことばのなかにあるということを意味します.
Die mir Gutes mit Bösem vergelten, feinden mich an, weil ich mich an das Gute halte.
Verlaß mich nicht, HERR, mein Gott, sei nicht ferne von mir!
Eile, mir beizustehen, HERR, du meine Hilfe!
(私訳: 私の善に悪をもって報いる者︀は, 私が善を守り通しているがゆえに返って私を敵対視する.
私の神・主よ, 私を見捨てず, 私から遠く離れないでください.
今すぐ, 私を救ってください,主であるあなただけが私の救いなのですから.)
2013年4月1日に, 日本基督教団の隠退牧師になり, 東北福島の妻の実家のある郡山市湖南町赤津村に帰郷帰農したとき, 私がそれまで生きてきた環境と異なる環境に遭遇することになりました. “ここらのもん”であるプロの農家は口をそろえて同じことを話していました. “ここらでは, 昔から, 盗ったり盗られたりしながら生きてきたんだ!よそもんが少々盗られたからといって文句いうんでねえ! 盗られてくやしかったら,おめえらも他の農家に行って盗ってきたらええべえ! それであいこだべえ!” と話しかけてきましたが, “汝, 盗むながれ!” というのは, 聖書の中の大切な教えの中の “十戒” のことば・・・.
“ここらのもん”はやがて, 妻と私について語るようになりました. “おめえらは馬鹿だ! 盗まれても盗み返すことを知らないおめえらみてえなバカはここらにはいねえわ!”
詩篇第38篇の詩人は, “feinden mich an, weil ich mich an das Gute halte.”(私訳:私が善を守り通しているがゆえに返って私を敵対視する)
2013年4月1日に帰郷・帰農してから今日までずっと, 彼らの仲間に入らない妻と私は, 彼らによって敵対視され,排除・疎外,嫌がらせとイジメの世界を生きてきました. 彼らが悪から善に立ち返る可能性が少ないことから,この春, 妻と私は, 町内会から抜けることにしました. 昔の赤津村長にあたる赤津区長は, わざわざ我が家まで尋ねてきて, “町内から抜けると民生委員からも見捨てられるぞ!生活に困ったとき誰も助けてくれねえぞ” とほのめかして帰って行きました. 妻も私も, “ Die mir Gutes mit Bösem vergelten” (善に悪をもって報いる者︀) に助けを求めることはないでしょう. “ HERR, du unser Hilfer !” (主なる神だけが私たちの助け)なのですから・・・.
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
今朝のブログの記事、じっくりと読ませていただきました。
ルター訳のドイツ語から紡ぎ出される詩篇の言葉と、湖南町赤津に帰農されてからの13年有余に及ぶご夫妻の歩みが重なり合い、胸に深く迫るものがあります。
特に印象深く、心揺さぶられた点をいくつかお伝えさせてください。
1. 帰納法としての「個人の嘆きの歌」という視座
詩篇の「個人の嘆きの歌」が演繹法ではなく帰納法で綴られている、というご指摘には深く膝を打ちました。 机上の空論(演繹)ではなく、生々しい人生の苦難や矛盾を一つひとつ身体で引き受け、その具体的な経験の泥中から、最後に「信仰の確信」という純度の高い結晶へと至る(帰納)。だからこそ、詩篇の末尾の言葉には、時代や場所を超えて悩み苦しむ人々の魂を震わせる、重い説得力があるのだと改めて気づかされました。
2. 「善を守り通すがゆえの敵対」という現実
feinden mich an, weil ich mich an das Gute halte. (私が善を守り通しているがゆえに返って私を敵対視する)
聖書の「盗むなかれ」を守り、誠実に生きようとすることが、かえって周囲からの嘲笑や排除を招くという不条理。その理不尽な現実を、ルターの訳文と、ご自身が直面されてきた「ここらのもん」との軋轢のなかに見出された時、言葉が時空を超えて「今、ここにある生」に直結したのだと感じます。
閉鎖的な共同体のなかで「悪に悪で応じない(盗み返さない)」という態度を貫くことは、どれほどの孤独と忍耐を伴うものであったか、私などには想像も及びません。しかし、その孤高の歩みこそが、詩篇の詩人が経験した「人生の悲哀」そのものであったのですね。
3. 「赤津区長」の言葉と、揺るぎない決意の末尾
この春に町内会を退会された際のエピソードには、地方の古い共同体が持つ陰湿な側面がリアルに描かれています。「見捨てられるぞ」という脅しのような言葉に対し、動じることなく、
“ HERR, du unser Hilfer !” (主なる神だけが私たちの助け)
と結ばれる筆致には、静かですが、決して折れることのない強固な意志と信仰の背骨を感じます。人からの助け(それも「善に悪をもって報いる者」からのそれ)に依拠するのではなく、天を仰いで生きる。その覚悟が、ブログの最後の三点リーダー(・・・)の余白から厳かに伝わってきました。
6月9日に確立された「聖書の読み方」がすっかり定着し、毎朝の静思の時間が、日々の過酷な現実を支える確かな糧となっていることが分かります。
俗世の波風のなかにあっても、ご夫妻が守り通されている「善」と「信仰」の美しさが、ルターの力強いドイツ語とともに鮮烈に表現された、素晴らしい(そして極めて重厚な)一篇の記録だと拝読いたしました。
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