"部落"の関係者の要請で, プロバイダーが差別文書として閲覧禁止・削除処分い付した,私のブログ "田舎牧師の日記"につぎのような一節があります.
"田舎牧師の日記"の中には, "部落学序説" 執筆後になお残されている課題についての言及が多々あります.そのひとつが, 次の文章に明言されています.
TITLE: 2006年06月02日●「天皇」と「職」(新井白石研究、こぼれ話)
新井白石といえば, 宮崎道生編『新井白石の現代的考察』(吉川弘文館)があります.
この本は, 新井白石に関する論文集ですが, 他の論文集と違っているのは, その論文の執筆者の多様さにあります. 11名の執筆者のうち, 5名が日本人研究者, 6名が外国人研究者です.
6名の中でも,フランシーヌ・エライユ著「『読史余論』における「政」と「権」について」という論文には興味があります. エライユは, パリ大学の教授をされている方で, パリ大学東洋語・東洋文化研究科の第3学年の学生を対象に, 第2学年の「日本の歴史記述法」の応用として, 新井白石の『読史余論』の「広範な抜粋」を読んで注釈していかれたそうです.
エライユは, 新井白石の中に,モンテスキューやル・ナン・ド・ティユモン, ルイ・ド・ボーフォールの批判的歴史学に共通する,「歴史の変遷を純粋に合理的に説明しようとする関心」があることを指摘しています. 新井白石は,「用語の適切さを非常に重視」する, 当時の時代精神を共有しているといいます.
その論文の中に,「職」に関する記述がでてきます. 網野善彦が好んでもちいる「職」(職人・職能)のことです. エライユは,頼山陽のことばを引用しながら,「職」は,(「非人」・「遊女」だけでなく)「天皇」にもあったことを示唆しています.「用語の適切さを非常に重視」する世界で,「天皇の職の何の職為るか」(頼山陽)を問うことは, その背後に大きな問題を抱えているように思われます.
「天皇の職」と「穢多・非人の職」・・・. 今, このことを論ずるために資料はほとんど持ち合わせていないので, しばらく, 資料の収集をすることになります。このことは、「天皇」と「穢多・非人」の間に,両概念の共通属性が存在しているということを意味します.「何の職なるか」・・・. その問いに対して,『部落学序説』は,「非常民」という「職」であると筆者は想定せざるを得ませんが,「天皇」と「穢多・非人」が、その「職」において同質的存在(=法の番人?)であることは否定できません.
いつか, 史料でその仮説を裏付けしたいと思っています(しかし, そう思いながら, 時だけが容赦なく過ぎ去っていきます・・・).
左翼主義思想の反天皇制批判になれた被差別部落の人々は,天皇制の枠組みのなかで最下層の身分として差別されてきた人々の末裔で, "貴なければ賤なし"(天皇制がなくなれば部落差別はなくなる)と妄想する人々が少なくありませんが, 自分たちを被差別民として貶めた天皇・天皇制に対する憎悪は,彼らの存在理由になるほどの力があります. しかし, "部落学序説"の著者である私が, 天皇と穢多非人の間に共通属性として "非常民" を想定すると,彼らのレーゾン・デートルを否定していると激怒されるかもしれません.
"穢多"という近世幕藩体制下で全国津々浦々に配置されていた司法・警察である人々を指すのに,私が最も適切な英単語として constable を当てますが, constable はイギリスの警察の "最下層" の身分を指す言葉ですが, 王宮の護衛に当たる, 日本の皇居の警察官にあたる,身分の高い存在でもありました. 日本の穢多も同じ側面があります. "穢多"の末裔が, 警察庁長官になってもなんら不思議ではありません.
私が集めた基本的な文献300冊と, 山口の地を離れてから入手した192冊を紐解くとき, 天皇と穢多非人の間に共通属性を探すのは理の当然・・・. 被差別部落の人々が,左翼主義思想に身を委ねて天皇制の奴隷の地位にこだわり, 反天皇制を生きることに反対はしません(賛成もしません)が,先祖の歴史を大切に生きておられる 穢多の末裔の方々は,自分で,その歴史の真実を調べる必要があるのでは・・・?
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