2025/10/14

ボウガケのある風景・・・


  
    上の写真は, 2017年に撮影した, 妻の実家の棚田の田のボウガケした風景です.

    日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていたとき,2005年から, 毎年春と秋の連休のときに, 6日間戻って,妻の実家のおとうさんと,私が日本基督教団の隠退牧師になって,湖南の赤津村に帰郷・帰農したとき,どのような暮らしをするのか話し合って来ました.

    妻の実家を尋ねる前に,段ボールに私が読んだ農書を入れて送り,それを開きながら,おとうさんと話をしました. おとうさんから,田・畑・山林の場所を教えてもらい,その土の種類・水環境,5箇所に分散されている田畑でよくとれる野菜や米の種類と品種,有機・無農薬栽培をするときの問題点,問題解決の方法,微気象,  無加温温室の作り方などについてもいろいろ教えてもらいました.

    東日本大震災と原発事故による放射能汚染の出来事で,おとうさんは,"ここが放射能汚染されていたら,もうここさ戻って来る必要はねえ・・・" と寂しそうに話していました.東海村の原子力発電所に季節労働者として勤めていたおとうさんが受けたショックは相当大きなものがあったようで,事故の次の年の1月1日に心臓発作で他界しました. その前の秋,おとうさんは, "よし,わかった.お前たちなら,ここで有機・無農薬でコシヒカリを栽培できる! しかし,ここさ戻ってきても,おらと話したことを他の農家に話してはなんねえぞ.バカにされるだけだから・・・.お前にオラの田畑を任せた.大切に守ってけれ!"  と話していましたが,それがおとうさんから聞いた最後の言葉になりました.

    湖南の赤津村のプロの農家の方々は,"ここらのもんは,おめえにコメの作り方は誰も教えねえことになってんだ! 誰に教えてもらったんだ?" と語りかけて来ましたが, その言葉の背後にある,"ここらのもん" の "よそもん" に対する冷たさを感じました. おとうさんは,"帰ってきても,ここらの農家のいうことを信じちゃなんねえぞ.親切そうにはなしかけてきても,ほんとうのことは教えねえ.農業は営農だから.商店を経営するのに他の商店に経営の相談をもちかけたら,親切に教えてくれるけれど, やがて商店をとられてしまう. 営農もおんなじだ.同業者に相談にのってもらってはだめだ.ここさ帰ってきて,有機・無農薬でコシヒカリを栽培するなら,最初から最後まで自分たちの知識と技術だけでやれ!" という言葉は,妻と私に対するおとうさんの遺言になりました.    

     2013年に帰郷・帰農,稲作に必要な小型農業機械を調達,育苗用ハウス・無加温の簡易温室などを建てて,2014年からコメ作りをはじめましたが, 最初の年から,早稲のヒメノモチ, 中稲のはえぬき,晩稲のコシヒカリを収穫することができました. コメ作りをはじめたとき,私は66歳,妻は58歳でしたので, まだ体力がありました. それでボウガケは,農道を使って,軽量単管パイプを運んだり, 刈り取った稲を農道沿いの田んぼの中に南北に一直線に並べていました. ボウガケ数は50本程度・・・.

    上の写真は,棚田の中段のはえぬきの田の内側から撮ったものです. 右手の奥に見えるのが会津磐梯山です.

    その当時と,2025年の現在では,バインダーを使った稲刈りの方法と刈り取った稲の運搬方法は大きく変わりました.一輪車からミニクローラに変わり,刈り取った稲は直接ミニクローラに積み込むようになりました. 刈り取った稲も,道路沿いに一直線に並べるのではなく,脱穀機を効率よく移動できるように中段の田に集中して立てることにしました. ミニクローラも,農道を経由することなく,下段の田と中段の田を行き来できるように畔を整備しました. 水量豊富な農業用水路から2インチの給水ポンプで水を汲み上げるときも, 農道を使用しないで別のメインの農業用水路の田側をはわすことにしました.水管理は1箇所の水門をあけることで, 水がコシヒカリ・はえぬき・ヒメノモチの田全域に行き渡るようにしました. 妻と私の高齢化にあわせて,田の風景は大きく変わりつつあります.

    上の写真は, それ以前の田の風景です.



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ボウガケのある風景・・・

       上の写真は, 2017年に撮影した, 妻の実家の棚田の田のボウガケした風景です.     日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていたとき,2005年から, 毎年春と秋の連休のときに, 6日間戻って,妻の実家のおとうさんと,私が日本基督教団の隠退牧師にな...