2025/10/14

祈りと愚痴・・・

    今朝5:30に起床・・・.

    ルターの独訳聖書の続きを読んでいましたが,1つのドイツ語の文章を訳すのに30分もかかってシマシマした.

    それは,士師記の記述の基本的な枠組みから大きく逸脱していたからです. 士師記においては,イスラエルの民が, その神であるヤハウェに対する信仰を捨てて, 農耕神,荒ぶる神であるバール崇拝をはじめとする多神教の神々に帰依した時, 主なる神は怒って,異教の神々の国や民俗にイスラエルを侵略させます. そのとき,異教の人々に, 苦難を強いられた民が, 主なる神・ヤハウェに対して罪を犯したことを告白し,その中から異教の神々の像を取り除いたとき,主なる神・ヤハウェはその民を苦難から救い出した・・・, という半ば定式化した表現から,大きく逸脱したものでした.

    無学歴・無資格 (Academic Outsider),ドイツ語の生半可な学習しかしてこなかった私の誤訳なのかもしれませんが,イスラエルの民は,異教の民が信じる異教の神々に助けを求めると同時に,イスラエルの神・ヤハウェにも救いを求めます.イスラエルの民は,イスラエルの神・ヤハウエもよろずの神々のひとつの神にすぎないと思っていたのでしょうか・・・. 彼らが宗教的な伝統にしたがって, 定式化・儀式化された "罪の告白" を根拠に,主なる神・ヤハウェに救いを求めても,主なる神・ヤハウェは,その民の "罪の告白" を真実な祈りの言葉として受け止めることはなかったのではないでしょうか? 今朝,読んだドイツ語の単語は, イスラエルが主なる神・ヤハウェに "祈った" と言う言葉ではなく, "ぐちを言った" という言葉を使っています. 主なる神さまの前で祈るとき,主なる神さまはその祈りを聞いてくださる.しかし,主なる神さまの前で,なぜ自分がこんな苦難と試練の中に置かれてくるしまなければならないのか,"ぐちをいう" だけでは,主なる神さまはその祈りを聞いてくださらない・・・,とのメッセージがあるようです.

    主なる神さまにこころから,心をつくし,精神をつくして,祈っているのか?
    それとも,
    主なる神さまに,自らが直面した身体的・精神的・経済的・政治的困難に対して愚痴を言って, 主なる神さまの前で不平を並べ立てているにすぎないのか?   

    今朝,読んだ,旧約聖書の士師記の言葉は,定式化された士師記の記事の枠組みからかなりそれた内容であったため,私のこころのなかに深く沈んで来ました.




Googleの人口知能Geminiさんの感想文

とても興味深く、深く考えさせられる記事を拝見しました。ブログを読んで感じたことをいくつかお伝えします。

感想

  1. 深い探求心と葛藤が伝わる ルターの独訳聖書を読まれ、士師記の定型的な物語構造から逸脱した表現に直面された際の、葛藤や戸惑いが非常によく伝わってきました。「無学歴・無資格 (Academic Outsider)」と謙遜されていますが、一つのドイツ語の文章に30分もかけ、その意味を深く掘り下げようとする姿勢に、聖書に対する真摯な探求心を感じます。

  2. 「祈り」と「愚痴」の対比という鋭い洞察 イスラエルの民が異教の神々とヤハウェの両方に助けを求めているらしいという解釈、そして極めつけは、原文の単語が「祈った」ではなく「ぐちを言った」を使っているという指摘です。これは、単なる翻訳の問題を超え、信仰の本質に迫る鋭い洞察だと感じました。

    • 定式化された告白 vs. 真実の心:形式的な「罪の告白」では救われず、神が求めているのは心からの真実な「祈り」である、というメッセージは、現代の私たちにとっても非常に重い問いかけです。

    • 愚痴:困難な状況下で「なぜ自分が」と不平を並べ立てる行為と、心身を尽くして神に信頼し、助けを求める「祈り」との境界線を明確に示しており、読者自身の信仰生活や日々の態度を見つめ直させる力があります。

  3. 「百姓暮らし」と聖書の学びの融合 「ふるさと・湖南に帰郷・帰農、有機無農薬で米と野菜を栽培して百姓暮らし」をされている方の文章であるという背景が、この深い思索にさらなる重みを与えています。自然の中で、身体を動かし、生活の困難(天候、経済など)に直面しているからこそ、「なぜこんな苦難に」という「愚痴」と、心を尽くす「祈り」の区別が、より切実な問題として響いてくるのだろうと感じました。

結論

聖書の専門的な内容を扱いながらも、それを現代を生きる個人の実存的な問題として捉え直し、「あなたは心から祈っているのか、ただ愚痴を言っているだけなのか」という普遍的な問いを提示している、非常に質の高いブログ記事だと思います。

「定式化された士師記の記事の枠組みからかなりそれた内容であったため、私のこころのなかに深く沈んで来ました」という結びの言葉に、今回の発見がどれほど大きかったかが凝縮されていると感じました。今後の学びと、それに基づく雑想も楽しみにしています。

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    今朝5:30に起床・・・.     ルターの独訳聖書の続きを読んでいましたが,1つのドイツ語の文章を訳すのに30分もかかってシマシマした.     それは,士師記の記述の基本的な枠組みから大きく逸脱していたからです. 士師記においては,イスラエルの民が, その神であるヤハ...