昨日の朝,偶然,私の目に飛び込んできた旧約聖書申命記のことばです.
11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。
12 これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
13 またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
14 この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。
15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。
16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。
12節と13節のことばから,私は, 修験道のことばとふるまいを想起しました. 天に一番近いところ, 山の頂きに登り,そこで難行苦行をして,真理を悟り,それを里に持って帰って民・百姓に幸いをもたらす,また人跡未踏の海の半島・海岸を尋ねて真理を追究する・・・, 私の先祖・信州栗田村の真言宗観聖寺の住職・修験僧が生きたであろう,宗教者としての姿を思い浮かべました.
申命記30章12節と13節のことばは,その必要はもはやないということを物語っています. 人が知らなければならない真理は,山の上でも海の果にもなく,神の戒めと定め,おきてを記した "聖書" の中に記されている・・・!その教えは,"むずかしいものではなく、また遠いものでもない" .聖書の神である主を愛し,その道を歩んでいるものは,守るべくして守ることができる・・・!
私の愛読書に, イギリスの小説家ダニエル・デフォーの小説 "Robinson Crusoe" がありますが,船が難破して孤島に漂着した主人公が生きる支えにしたのは聖書のことば・・・.主人公のキリスト教の信仰は敬虔主義的信仰そのもの・・・. そんな主人公のもとに,ひとりの男性が敵の攻撃から逃れて来ます.主人公はそのひとに聖書の神について,またその神を信仰していきることについてそのひとに教えるのですが, 彼は,"私の先祖の神は山の頂きにのぼってそこから大きな声を出してよびかけないと聞いてくださらない. しかし,聖書の神は,部屋に閉じこもって祈っているときその声を聞いてくださる. 聖書の神は耳がいい. 先祖の神より偉大だ!" と語る場面が出て来ます. 私は,高校生のときに,ダニエル・デフォーの小説 "Robinson Crusoe" を読んで,敬虔主義的な信仰をもって生きるということがどういうことを意味しているかを学びました.
ダニエル・デフォーの小説 "Robinson Crusoe" は今も愛読書のひとつです."冒険物語" としてではなく "信仰の書" として・・・.
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