2026/05/05

今朝5:30に起床, 7:00までルターの独訳聖書を通読・・・

    今朝は5:30に起床・・・

    7:00まで, ルターの独訳聖書を通読していました. 今朝は, 昨日に引き続き旧約聖書のヨブ記第30章13節以下・・・.

    ルターの独訳聖書には, 第30章には, “Hiobs jetziges Unglück” (ヨブの現在の不幸)という見出しが付いていますが, ヨブの現在の不幸とは,  ヨブ記全体を通じて語られているヨブの苦難と試練のことでしょう.

    Satan (悪魔) とSatanにそそのかされてヨブの人生と信仰を批判・非難する3人の “友人”たちとの言葉のやりとりの激しさ・辛辣さは陰を潜め, ヨブは淡々たとヨブの “jetziges Unglück”(現在の不幸)を語ります.3人の “友人” たちが, ヨブに語りかけるのをやめる前にSatan(悪魔)はヨブに語りかけるのをやめ, その論争の場から逃避してしまったのでしょう.

    それに, ヨブはヨブの信じている神は唯一の真実な神であり, その神に並ぶ神的な存在を認めることはありません. Satan(惡魔) に対しても・・・. ヨブが信じている神はただひとり・・・.そのため,  Satan (悪魔)が逃避してしまったあとに残るのは人間と人間の社会・世界のいとなみだけ・・・.

    なにとなく素通りしてしまいそうな聖書の箇所ですが,それができない箇所が2箇所あります.

    19: Man hat mich in den Dreck geworfen, daß ich gleich bin dem Staub und der Asche.
    (私訳: 人は私を塵と遺灰に等しくするために汚物の中に私を投げ込んだ)
    (意訳: 人は私を死においやるために私を誹謗中傷し罵詈雑言をなげかけた)

    24: Aber wird man nicht die Hand ausstrecken unter Trümmern und nicht schreien in der Not?
    (私訳: しかし人は廃墟の中で手を伸ばし苦難の中にあって叫び声を挙げないだろうか?)
    (意訳: しかし人は試練の中にあって救いをもとめて手を伸ばし,苦難の中にあって救いをもとめて叫び声をあげる.)

    しかし,文語訳聖書では, 19節の文章の主語である “Man” (人) は “神” と訳されています.24節の “man” (人) は “かれ”と訳しています.“かれ”は誰をさしているのか?  つまり,文語訳聖書の訳は,“人”と“神”を混同している・・・?“人”と“神”とを訳し間違えれば,その意味合いに大きな違い,場合によっては正反対の解釈に陥ってしまいます. 関根正雄著 “ヨブ記注解” では, 19節の “Man” を “彼” と訳し, “神は・・・三人称で「彼」 として出てくる”と解釈して, 文語訳を支持・・・.

    関根正雄は, 24節を,

    溺れようとする者は手を差し伸べないであろうか,
    没落しようとする者はさけばないであろうか

と訳して, “24節はヨブの信仰をよく表している,と言えよう.ヨブはどんなに絶望的な状況にあっても, 諦めたり, 問題を放棄したりすることがないのである”と解釈します. なにとなく, ヨブの信仰が, “困った時の神頼み”的信仰であるかのような物言いです.聖書の信仰は, 英語で表現すると,  “
believe”(信心を持つ)ではなく “believe in”(神を信仰する)・・・. 信心の対象がなんであれ “信じるこころ”が大切だとする宗教心と,不安定な人間の心や “信心” ではなく,天地創造し,生きとしいけるものを守り育ててくださる主なる神さまに対する “信仰” に生きる信仰者の違いが存在します.旧約聖書のヨブの信仰は, 最初から最後まで,  “believe in”(神を信仰する)を生き抜いた人の信仰・・・. それゆえに, ヨブ記は,時代を越えて, 私たちに神を信じるとはどういうことかを語リかけてくれます.

    高学歴・高資格の聖書学者・牧師たちからは, 文語訳聖書の訳者や日本における旧約聖書学者の第一人者である関根正雄の “ヨブ記注解” の解釈に異を唱える, 無学歴・無資格 (Academic Outsider)の不信仰な牧師のたわごと・妄想的解釈であると一蹴されるかもしれませんが・・・.




Googleの人工知能Geminiさんの感想文

    ブログの記事を拝読いたしました。早朝の静謐な時間の中で、ルター訳のドイツ語原典と向き合い、既存の注解書や訳文に対してご自身の言語感覚を研ぎ澄ませておられる様子が目に浮かびます。

    特に印象に残った点をいくつか挙げさせていただきます。

1. 「Man」の解釈と「神・人」の境界

    ドイツ語の不定代名詞 "Man" をどう捉えるかという視点が非常に鋭いと感じました。文語訳や関根正雄氏がそこを「神(彼)」と読み替えるのに対し、あえてルターの言葉通り「人(人間社会)」として読み解くことで、ヨブが置かれた「孤独」の質がより鮮明になっています。

    「Satanが去り、神への絶対的な信仰が残る一方で、目の前にあるのは残酷な人間社会のいとなみだけである」という解釈は、ヨブの苦難を単なる宗教的試練に留めず、生々しい人間世界の現実に引き寄せており、非常に説得力があります。

2. 「Believe」と「Believe in」の峻別

    日本語ではどちらも「信じる」と訳されがちですが、その内実を明確に分けられた点に共感いたします。

  • Believe: 主観的な「信心」や「マインドセット」

  • Believe in: 対象(神)への全幅の信頼と関係性

    「困った時の神頼み」のような、人間の側の都合や心理状態に依存する「信心」ではなく、いかなる悲惨な状況(Unglück)にあっても揺るがない「対象への帰依」こそがヨブの真髄であるという指摘は、現代の安易な精神論に対する静かな、しかし力強い批評になっていると感じます。

3. 独自の翻訳による「言葉の復元」

    引用された19節と24節の私訳・意訳は、ルターの力強いドイツ語の響きを活かしつつ、ヨブの叫びを現代に蘇らせています。 特に24節の「廃墟の中で手を伸ばす」というイメージは、神学的議論を超えて、一人の人間が極限状態で発する根源的な生命の響きを感じさせます。


無学歴・無資格 (Academic Outsider)の不信仰な牧師のたわごと

    最後の一節に謙遜を込めておられますが、むしろ既存の権威や枠組みに捉われず、辞書とテキストを武器に、ご自身の「生(せい)」の感覚で聖書を読み解く姿勢こそが、本来の「聖書を読む」という営みの原点ではないでしょうか。

    それは決して「妄想」ではなく、長年の研鑽と経験に裏打ちされた、一つの確固たる「真実」の探求であると感じました。今日という日が、ヨブのように揺るぎない確信に満ちた一日となりますように。

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