2025/10/15

今朝4:30に起床して7:00までルターの独訳聖書を読む・・・

    今朝4:30に起床して, 7:00までルターの独訳聖書を通読しました.

    今は, 旧約聖書の士師記を読んでいますが, ひとりの士師についての記述の長さはまちまち・・・. 非常に長い記述もあれば, わずか数行で終わる記述もあります.士師の名前と,出身部族名と活躍期間のみ記載されて,その活躍の内容が一言も触れられていない場合もあります.

    無学歴・無資格 (Academic Outsider) の,日本基督教団の隠退牧師である私もその一人かもしれません. Sweden Covenant Mission の教会のあとをついだ教会の牧師たちは, 日本基督教団の教会のことを "悪魔の教会" と呼び, 私が日本基督教団の牧師になるために鶴川学院農村伝道神学校に入学試験を受けに行ったとき,"悪魔の神学校を受験しに行った" と大騒ぎしていました.

    悪魔はキリストの教会の上に悪魔の教会を建て,キリストの神学校の上に悪魔の神学校をたてるとよく言われていますが, 私が洗礼を受けた 
Sweden Covenant Mission はヨーロッパの北欧・スウェーデンの流れをくんでいますが,日本人牧師たちは,アメリカ経由の流れをくんだ神学校を出た人ばかりでした. ヨーロッパの基督教の信仰と神学とアメリカの基督教の信仰と神学の間で, 私は,  Sweden Covenant Mission の宣教師の影響もあって, ゲルマン民族系の基督教の信仰と神学を生きることになりました.

    Sweden Covenant Mission の 教会史からは, 私の名前は省略され,日本基督教団の牧師になって最初の任地は神奈川教区の開拓伝道所でしたが, 無学歴・無資格 (Academic Outsider)の牧師を初代牧師にすることはできないとしてその教会史からも名前を削除され,そのあと30年間牧師をしていた,前任者が自害したといわれる教会は,宗教法人の閉鎖手続きをして,あとにしました.ただ, 日本基督教団の年金受給者名簿にのみ,名前を残すのみ・・・. それも私と妻が逝去すると同時にその名簿から名前を外されますので,やがては,消えてなくなってしまうことでしょう.

        日本基督教団富士見町教会の島村亀鶴先生に, "私は,地方のちいさな教会で野垂れ死にする身ですから・・・" と話したとき,島村亀鶴先生は,"心配するな.私も野垂れ死にする." と言葉を返して来られました.ギリシャ正教の伝道師は, その肩に棺桶代わりの袋を担いで伝道したと言われています. 誰も同信のひとがいない異教世界でその最後を迎えなければならなくなったとき, その袋に入って,自分で自分を埋葬したと言われています. 

    基督教の伝道師の "自葬"・・・. 島村亀鶴先生と私の会話は,それを前提とした会話です.

    実際は, この世的に見れば,島村亀鶴先生も野垂れ死にすることはなかったし,私も,日本基督教団の隠退牧師になったあと, 東北福島の妻の実家のある郡山市湖南町赤津村に帰郷・帰農して,年金暮らし&百姓暮らしをして10数年生きているわけですから,野垂れ死にする可能性はほとんどありません.

    人生は,すべからく,天地を創造し,生きとし生けるものを守り育ててくださる主なる神さまから貸し与えられたもので,いつか,主の御手に返さなければならなないときがやってきますが, いつ・どこで・どのような仕方で,主に貸し与えられた人生を返すことになるかは,主なる神のみぞ知る・・・,であって,人が決めることができる類のものではありません.

    旧約聖書の創世記には,"◯◯は生まれて死んだ" という記事がたくさんあります.生まれることも死ぬことも,主なる神さまから見捨てられた人間のしるしではなく, 主なる神さまが祝福してその人生を導いてくださったという, 神の愛のしるしです.

    ルターの独訳聖書,日本の文語訳聖書や "英訳聖書"(NSRV)とかなり訳の違いがあるようです. その訳の違いを確認するのも,聖書通読のたのしさのひとつです. 
日本の文語訳聖書や "英訳聖書"(NSRV)の "ナルジひと" という言葉は,ルターの独訳聖書では, "聖別されたひと" と訳されていました. "ナルジひと" は "神に誓願をしたひと" という意味ですが, ひとはその母の胎内にいるときに "神に誓願する" 能力は持っていないと思われるので, 母の胎内にいるときから "神によって聖別されたひと"と解釈するほうが適訳であると思われました.


Googleの人工知能Geminiさんの感想文

ブログ記事への感想

ブログ記事を拝読しました。早朝4時半からのルターの独訳聖書の通読、本当にお疲れ様です。士師記の記述の「まちまち」さへの気づきから、ご自身の牧師としての歩み、そして信仰と神学の葛藤へと話が進み、非常に読み応えのある内容でした。

特に印象に残った点と感想を以下にお伝えします。

1. 聖書通読と士師記の記述について

ルターの独訳聖書をとおして士師記を読まれているのですね。士師記の記述の長さの違いや、名前と部族名、活躍期間のみで終わる士師への言及は、鋭い観察だと感じました。

  • 共感: 聖書の記述の「省略」や「まちまち」さの中に、何か大切なメッセージが隠されているのではないか、と考えるきっかけをいただきました。

  • 深み: 存在の記録の長さや詳細に関わらず、「ただ主なる神さまが祝福してその人生を導いてくださったという、神の愛のしるし」として捉え直す視点は、ご自身の歩みと重ねられているからこその深みがあると感じました。

2. ご自身の牧師としての歩みと「無学歴・無資格 (Academic Outsider)」

「士師記の記述のまちまちさ」を、ご自身の「Academic Outsider」としての歩みと重ねておられる点が、記事の核になっていると感じました。

  • 率直な語り: Sweden Covenant Missionとの関係、日本基督教団の牧師としての任地での名前の削除、そして年金受給者名簿にのみ残る名前、という率直な語りは、読者の心を打ちます。

  • 葛藤の背景: ゲルマン民族系の信仰・神学とアメリカ経由の信仰・神学の間の葛藤も、牧師としてのアイデンティティを形成する上での重要な要素であったことが伝わってきました。

3. 島村亀鶴先生との対話と「自葬」

島村亀鶴先生との「野垂れ死にする」という会話、そしてギリシャ正教の伝道師の「自葬」の話は、重くも清々しい、深い信仰告白のように感じました。

  • 信仰の姿勢: 「自葬」を前提とした対話は、世的な名誉や保証ではなく、ただ神の召命に応えるという、極めて純粋な伝道者の覚悟を物語っているように思えます。

  • 現実との対比: 郡山市湖南町での「年金暮らし&百姓暮らし」という現実と、「野垂れ死に」の覚悟の対比が、人生のすべてを神の御手の中に委ねるという信仰の核心を際立たせています。

4. 翻訳の違いから得られる喜び

最後に、聖書通読の楽しみとして、ルターの独訳聖書と日本の文語訳聖書・NSRVとの訳の違いを確認されている点に、深い学究心と信仰への真摯な姿勢を感じました。

  • 「ナルジひと」と「聖別されたひと」: 「ナルジひと」(神に誓願をしたひと)を「神によって聖別されたひと」と解釈される視点は、人が生まれる前から神の選びと恵みがあるという、キリスト教信仰の根幹に関わる重要な洞察であると感じました。


全体として:

早朝の静謐な時間に行われた聖書通読の体験から、深い神学的・実存的な考察へと展開し、ご自身の牧師としての人生を振り返りながら、最終的には「人生は、主なる神さまから貸し与えられたもの」としてすべてを神に委ねる、という力強いメッセージで結ばれています。

牧師としての「世的な記録」は薄くとも、神の愛のしるしとして生かされているという確信が、文章全体から感じられ、読者として信仰の深さを考えさせられました。

素晴らしい記事をありがとうございました。

     

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