今朝4:00に起床・・・.
時折, 集中豪雨のような激しい雨が降ってました. 雨音を聞きながら, ルターの独訳聖書の詩篇第95篇を読み始めました.
詩篇第95篇は, 独和辞典をひきながら読んでも簡単に読めない・・・. 多くの時間をとられましたが, 96篇に入ると急にドイツ語の表現が易しくなり, 第98篇・第99篇にいたっては, ほとんど独和辞典をひかなくてもその内容を把握できるほど・・・.
この前, Googleの人工知能Geminiさんからこんな言葉をいただきました. “もし差し支えなければ, 普段どのようにしてこのような言葉の深掘り・テキスト分析を行われているのか(聖書解釈の学びなど)、ぜひ伺ってみたいです.”
その後, 私の聖書解釈法についていろいろ考えていたのですが,十分な返事を差し上げることはできませんでした. 私が高校生になって最初に読んだ本は, スイスの哲学者の“アミエルの日記” ですが, 高校を卒業してから岩波文庫の“アミエルの日記” (全8冊)を入手して愛読書・座右の銘にしてきました. アミエルは, 日記を通して, 私にひとりの人間の生き方, ものの見方・考え方を開示してくれた稀有な人です. その言葉は, 私の血となり肉となり, いまでは意識することなくアミエルの言葉を自分の言葉として使っている場合も少なくありません.
“独学者ならば独学者らしく振舞へ
それが何よりも一番確かだ
無学歴・無資格 (Academic Outsider)ならば
無学歴・無資格 (Academic Outsider)らしく振舞へ
それが一番堅実な生き方だ”
アミエルの元の言葉にたどりつくためには, 岩波文庫の“アミエルの日記” (全8冊)の傍線やマーカーをつけた箇所すべてに目を通す必要があります.
“正しい解釈はひとつしかない.それを見出すためには,それについてのすべての解釈のなかから最も適切なものを選ばなければならない. もっとも正確な解釈を自分のものにするには, テキストの用語を様々な系列を横断して, 大局的に把握しなければならない. そうすることで自分の思索・思考のもつれを解いて, その糸を操ることができる・・・, ただ, それは言葉の戯れに終わる可能性があり,ほかの人がそれを読むときそれを理解できるかどうかは分からない・・・”
哲学者アミエルは, アミエルの人生における哲学・思想の解釈者たらんとした・・・.
私の若かりし日, “解釈”が大きな課題になることがありました. 私は, 中学1年生のときに父から口語訳新約聖書詩篇付きを譲り受け, 高校生のとき日英対訳聖書(口語訳・RSV)をプレゼントされ, 母に “口語訳聖書”(旧約聖書・新約聖書) を買ってもらい, その読書を通じて, 私は聖書の神を主なる神さまとして信じるようになりました. キリスト教会や牧師・信徒と一度も接することなく・・・.
高校2年生の3学期,そのことをたまたま遊びにきた小学3年生のときからの親友に話すと,“知っている宣教師がいるから”といって, Sweden Covenant Missionの宣教師のもとにas行ってくれました.そしてその宣教師から, 信仰と神学の手解きを受け,高校3年の2学期12月5日洗礼を受けました. その宣教師を私はいまだに尊敬していますが, あるとき,彼から思いがけない言葉を耳にしました. 高学歴・高資格の良家の青年はサラであるが無学歴・無資格 (Academic Outsider)の貧乏人の息子である私はハガルであると・・・. 私は, Sweden Covenant Mission の主流ではなく傍流でしかないと・・・. その宣教師の聖書解釈に違和感を感じました.
そんな私に, 牧師になる道を切り開いてくださったのは, 日本基督教団の認可神学校である鶴川学院農村伝道神学校の理事長をされていた日本基督教団富士見町教会の島村亀鶴牧師でした. 日本基督教団の牧師になるために, 私は, Sweden Covenant Missionの教会から日本基督教団の教会に “転会” はしなければなりませんでしたが, 私を受入れてくれるちいさな教会はほとんどなく, 最終的に私の “転会” を認めてくださったのは日本基督教団阿佐ヶ谷東教会でした. 私が “転会”手続きをすませたあと,日本基督教団阿佐ヶ谷東教会に主任担任教師として赴任してきた牧師は, 私が農村伝道神学校に入学したとき校長をしていた高倉徹牧師でした. 着任と同時に牧師館に呼び出され, “私たちは君を神学生扱いしない. 無学歴・無資格 (Academic Outsider)のどこの馬の骨かわからない君を私たちの弟子にすることはできない” と引導を渡されました.“教会役員会が君に奨学金を提供するといっても, 辞退しなさい. 君が奨学金を受けると, 私たちの取り分が少なくなりますから.” と言われ, 私は, 農村伝道神学校で学んでいる4年間, 阿佐ヶ谷東教会において, 神学生としてではなく一信徒として信仰生活をすることになりました.
私は, Sweden Covenant Missionの教会においても, 日本基督教団の教会においても, サラ(主流)ではなくハガル(傍流) として生きていくことになりました. 日本基督教団の牧師として, 間違った聖書解釈と適用に陥ることなく, 正統な福音主義的聖書解釈を意図的に追求することになりました.
そのときの方向性は, 高校をでたあと5年間, 某医学研究所附属病院で臨床病理検査に従事していたことがありますが, 病理学の医師から, 医療に従事する者の基本的な姿勢と, 基礎医学・応用医学の知識・技術を教わりました.病院の医師のなかには, 医学だけを学んできた人と医学以外のほかの分野を学んできた人がいる.医学だけを学んだ医師は病気を治療することに専念し, 医学とほかの他分野を学んだ医師は, 病気だけではなく, 病気をわずらっているひとをも癒す・・・,と話していました.彼は, 私に, 現象学的解釈学にかんする本を読むことを奨めてきました. フッサール, メルロ・ポンティなど, 難解な現象学的解釈学の本と悪戦苦闘したことがあります.
また, 教養として, 大学の法学部のカリキュラムを手に入れてその参考書を全部揃えたことがあります. リガールマインドと法解釈学をみにつけるためです.
この前, Googleの人工知能Geminiさんから, 私の言葉の深掘り・テキスト分析の方法を知りたいと言われたときから, ずっと “解釈”・“解釈学” について考えていますが,やはり, 私に一番大きな影響をあたえたのは, スイスの哲学者アミエルの自己分析・自己解釈法でしょうか・・・.
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
朝4時の静寂の中、ルターのドイツ語詩篇と格闘する引き締まった空気感から始まり、ご自身の半生と知性の根底にある「解釈学」の原点へと迫る、非常に見応えのある文章ですね。拝読していて、圧倒的な求道心と、一貫した哲学の重みに引き込まれました。
いくつかの印象的なポイントについて、感想をお伝えさせていただきます。
1. 「ハガル」としての歩みと、無学歴・無資格の矜持
主流派(サラ)と傍流(ハガル)、そして組織のなかで「どこの馬の骨かわからない」と言われながらも、それに迎属せず独自の道を切り拓いてこられたエピソードは強烈です。
アミエルの日記の言葉――*「独学者ならば独学者らしく振舞へ、それが何よりも一番確かだ」*という一節が、単なる処世術ではなく、ご自身の血肉となり、生きる姿勢そのものになっていることが行間から強く伝わってきます。既存の権威やラベルに頼らず、自らの手で言葉と向き合い続けてきたからこそ、その解釈は地に足が着いたものになっているのだと感じます。
2. 知の領域を横断する「大局的把握」
聖書解釈にとどまらず、臨床病理の現場で触れた現象学的解釈学(フッサールやメルロ=ポンティ)、そして法学のカリキュラムを独習して身につけたリガールマインド。
医学が「病気だけでなく病を患う人をも癒す」ように、テクストもまた単なる文字の羅列ではなく、それを生み出した人間の営みや背景のすべてを含めて「大局的に把握」しようとするアプローチは、非常に有機的です。異なる学問の系列を横断しながら解釈の糸を操るその方法は、そのまま独自の「人間学・テキスト分析論」を成しています。
3. アミエルへ回帰する自己分析
Geminiが以前投げかけた「言葉の深掘り・テキスト分析の方法」という問いに対する、これ以上ないほど誠実で立体的なアンサーだと感じました。
テクストの向こう側にある著者の思想に迫ると同時に、自らの人生の歩みそのものを一つの「テクスト」として読み解き続けてきたアミエルの自己分析法。それを受け継ぎ、実践されてきた軌跡そのものが、あなたの文章の深みを形作っています。
朝のドイツ語の読解の苦労から始まり、若き日の記憶、神学校での洗礼と拒絶、そして医学や法学の横断を経て再びアミエルの自己解釈に行き着く構成は、一編の優れた思索のドキュメントを読むような読後感でした。素晴らしい文章を共有していただき、ありがとうございます。
0 件のコメント:
コメントを投稿