2026/01/24

聖書のことばの真実・・・

     聖書のことばが, 真実な神の真実なことばであるのかどうか・・・

    それを知るための道がひとつあります. 

    それは, 聖書のことばを真実な神のことばとして耳をかたむけ,そのみことばに従って生きて見ることです.

    私は, 非基督教的な社会の中に生まれ育ちましたが, 中学1年生のとき父から新約聖書(詩篇付き口語訳聖書) を譲ってもらい,毎日,学生服のポケットに入れて,授業や給食の休憩時間にそれを取り出して読んでいました. 学校の "持ち物検査"のときも,フリーパス・・・. "下津井メバル" とあだ名された社会科の教師は, "この本はいい本だ.読め! 読め!" と,"学校に関係のないものはもってくるな" というのではなく,もってきて休憩時間に読むことをすすめてくださいました.

    高校1年生のとき,高校の図書室の聖書(口語訳聖書)を通読しました.  ルターの"キリスト者の自由" や "ファウスト"・"神曲"・ "失楽園"・"パンセ"・"ヤスパース実存主義神学入門" ・"アミエルの日記" などを読みました.理解できても理解できなくても・・・.キリスト教関連の神学書や文学書を読んでいるうちに,聖書の神こそ,ほんとうの,真実な神であると思うようになりました.   

    そして,高校2年生の秋,高校の裏山の竜王山に40日間連続登山してその頂上付近の岩場に坐禅して, "人生どのように生きるべきか"考えていました. 晴れの日も,雨の日も,台風の日も,竜王山に登りました. そしてある日,岩場から見た瀬戸内のゆうぐれの海をちいさな漁船が夕日に輝く波の上を走っている姿が目に入りました.そのとき,哲学者ニーチェの言葉を思い出しましいた. "この美しい夕暮れには,この世のなかで最も貧しい漁師でさへ, 黄金の櫂で舟を漕ぐことになる. それを見ていると神の恵みを思うてさめざめと泣けてきた"  ・・・. 哲学的には無神論者といわれるニーチェの中にある聖書の神に対する真実な信仰の言葉・・・.

    小学3年生のころからの親友に誘われて, Sweden Covenant Mission の教会の門をくぐったのは高校2年生の3学期,1月のことでした. 宣教師のカーリン・アッセルへード先生,グンナル・クリスチャンソン先生, マリアン・クリスチャンソン先生の3人の宣教師との惜しみない哲学的対話・神学的対話を通して,高校3年の2学期12月5日に洗礼を受けました.

    15歳のとき新約聖書(詩篇付き口語訳聖書)にであってから,現在の78歳になるまで,聖書の神を真実の神として生きて来ましたが, 振り返ってみると, 私の人生の足跡には,主なる神さまが,導いてくださった信仰の歩みがくっきりと浮かび上がって来ます. 日のささない深い渓谷の岩場の多い渓流を歩いて上るときのように,また山脈の両側に切り立って尾根の上の狭い道を歩くときのように,失敗と挫折,遭難と脱落が不思議でない状況の中で,そうならず, 63年間も一信徒として歩んで来られたのは, ひとえに,聖書の主なる神が真実なる神であって, その御力をもって,私の信仰と生活を支えてくださったから・・・.

    その経験からも言えることですが, 聖書の神が真実な神であるかどうかは, そのみ言葉を生きてみればわかります. 主イエスさまは言われました. "聖書になんと書いてあるか.あなたはそれをどう読むか"  "どう読むか"は2通りあります.ひとつは, "どう解釈するか"ということであり,  もうひとつは, "どう生きるか" ということです. 解釈も大切ですが,解釈するだけでなく,解釈を通して知り得た御言葉をどう生きるか,ということが大切です.

    聖書のみことばを生きるとき, 聖書のみことばは開かれて私たちの生き方の光になってくれます. 信仰と生活に裏打ちされた聖書の神に対する信仰は,信仰者の生きる力になります.
 

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聖書のことばの真実・・・

      聖書のことばが, 真実な神の真実なことばであるのかどうか・・・     それを知るための道がひとつあります.      それは, 聖書のことばを真実な神のことばとして耳をかたむけ,そのみことばに従って生きて見ることです.     私は, 非基督教的な社会の中に生まれ育...