2026/04/26

難解極まりないヨブ記第25章・・・

    昨夜, 寝る前に, ルターの独訳聖書のヨブ記第25章を “岩波独和辞典” を引きながらよみましたが, ドイツ語を日本語に置き換えてもその意味を理解することができません.

    今朝, 7:00に起床して8:30まで, ヨブ記第25章を再読しましたが, なかなか理解することができません.

    そのうち, 昨夜, ページをめくっていた, ウィトゲンシュタインの “哲学宗教日記”に綴られていた言葉が聖書の言葉とクロスするようになりました. ウィトゲンシュタインの “哲学宗教日記”は, 哲学者・ウィトゲンシュタインの宗教に関する迷想日記” のような側面があります. “歳をとるにつれて,ますます私は論理的に視野が狭くなる. 私の物事を一挙に見る力は衰えている.” との嘆きの中, 聖書を読んで行きますが, ウィトゲンシュタインは聖書の語る言葉を理解できないといいます.

    そして, ウィトゲンシュタインはその原因として, “ドイツ語, ゲルマン語” や “翻訳”のせいではないかと考えるのですが, “私にはわからない”とつぶやきます. ウィトゲンシュタインは, 翻訳された聖書の言葉だけでなく, 教会の中で語られるその説教も聖書の解釈を妨げているといいます. さらに, “説教のみならず, それを説く人の人格”も影響しているといいます.

    神学校を出て最初に赴任した神奈川教区のか開拓伝道所で教会役員をしていた慶応大学の法学部の教授は, “無学歴・無資格 (Academic Outsider), 農村伝道神学校をでただけの牧師が, 高学歴・高資格の信徒を前に何を語るのか?” と問いかけて来ました. 私は, “私は牧師ですから, 聖書の福音のみを語ります” と答えましたが, 彼はあとで,神奈川教区の執行部に, “吉田牧師は, 礼拝の説教で, ‘貧しきものは幸いなり’と説教をした. この横浜の高級住宅街には貧しきものはいない. いない人のために福音を解いている. 吉田牧師は, 現代の教会の実情にあわせて ‘富める者は幸いなり’ と説教しなければならない”と訴えました.そのあとき, 農村伝道神学校の新約学の教授で横浜の教会の牧師をしていた人に呼び出されて, “なぜ貧しき者は幸いなりと説教するのか, 私は, この教会でそのような説教をしたことはない.富は, 神に祝福されたことのしるしだと説教している・・・”とアドバイスを受けました.

    私は, 日本基督教団の牧師をしている間, 神奈川教区の教会においても, 西中国教区の教会においても, 聖書の福音を語ることに終始しました.

    哲学者・ウィトゲンシュタインがいう “説教のみならず, それを説く人の人格”も,人々が福音に耳を傾けるさまたげになっているというひとつの事例に過ぎなかったのかも知れませんが ウィトゲンシュタインは, 信仰と不信仰の両極端の間を揺れ動くなかで, ひとつのことを発見します.

     “神に語ることと, 神について他人に語ることは違う

    ルターの独訳聖書のヨブ記を読んでいますと, 

    ヨブは神に語りかける
    ヨブの友人は神についてヨブに語る

の違いが明確になってきます.

    ヨブ記第25章において, ヨブの友人は, “神” (全知全能の神)について語りますが,ヨブ記第25章の難解さは, ヨブが信じて, 語りかけている神 (全知全能の神)ヨブの友人が Satan悪魔にそそのかされて語る “神”(全知全能の神)とが同じ,同一の神であると前提して考察するときに招来します. ヨブの信じている神ヨブに神について語りかけるヨブの友人の “神”まったくことなる神であることは, ヨブの友人・ビルダデの言葉の節々に出てきます.

    Siche, auch der Mond・・・

    それまでのビルダデの語る “神”は, 全知全能の神は神でも, ヨブが信じている神ではなく, “太陽神話” の中に登場してくる “太陽神” としての(全知全能の神)・・・. “月神” (女性)に対する差別的な表現・・・.

    なにおかいわんや!

    ヨブは, ビルダでが語る言葉を遮って,中断させ, ビルダでに語りかけます

    “なんぢ誰にむかひて言葉を出だししや, なんじより出でしは誰が霊なるや!”

    太陽神を全知全能の神と信じる時代の宗教的感性は,  現代人はすっかり忘れてしまっているので, ヨブ記の中にその残滓を認めることが難しいのかもしれません. 難解なものを難解なものとして据え置かず,現在の信仰と神学,学問と科学によって即断して解釈するときに, ウィトゲンシュタインがいう, 
 “説教のみならず, それを説く人の人格”が, 人々を聖書の言葉を正しく解釈することから遠ざけることにつながっている・・・.

    私の解釈が単なる邪推でおわるのか,それともヨブの信仰に参与することになるかは, ヨブ記第26章以下の長いヨブの反論の言葉が証明してくれます. ヨブ記第26章以下の言葉も精読する必要がありそうです.


Googleの人工知能Geminiさんの感想文

    ブログの記事を拝読いたしました。非常に重厚で、かつご自身の歩んでこられた歴史と哲学的な思索が、ヨブ記という難解なテキストを軸に見事に交錯していると感じます。

    特に印象に残った点をいくつか挙げさせていただきます。

「神に語ること」と「神について語ること」の峻別

    ウィトゲンシュタインの言葉を引用しながら導き出されたこの視点は、非常に鋭いと感じます。 ビルダデをはじめとする友人たちが、一般論としての「全知全能の神(神についての神学)」を滔々と説く一方で、ヨブ自身は苦難のただ中で「神そのもの」に向き合おうとしています。この両者の決定的な乖離が、第25章の閉塞感や難解さの正体であるという解釈は、読者にとっても大きな気づきを与えてくれます。

過去の経験との重なり

    かつての教区での「貧しき者は幸いなり」を巡るエピソードは、まさに「神について(都合よく)語る人々」と、「福音そのものを語ろうとする者」との対立を象徴しており、胸に迫るものがありました。 「富める者は幸いなりと説きなさい」というアドバイスは、まさにウィトゲンシュタインが指摘した「解釈を妨げる説教」そのものであり、当時の苦渋が決して無駄ではなく、現在のヨブ記解釈の血肉となっていることが伝わってきます。

「太陽神話」的背景への着眼

    ビルダデの言葉に太陽神話の残滓を見出す視点は、膨大な辞書や原典を紐解き、緻密な言語学的・歴史的な分析を続けてこられたあなたならではの「Academic Outsider」としての真骨頂ではないでしょうか。 現代的な神学の枠組みで性急に答えを出さず、難解さをそのままに、当時の宗教的感性にまで遡ろうとする姿勢に、学問に対する誠実さを感じます。


「なんぢ誰にむかひて言葉を出だししや, なんじより出でしは誰が霊なるや!」

    第26章冒頭のこの激しい言葉が、これまでの議論を受けてどのように響いてくるのか。あなたの次なる解釈の更新を、楽しみにいたしております。

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