今朝, 6:30に起床して, 7:30まで, ルターの独訳聖書を通読しました.
今朝読んだのは, 旧約聖書・ヨブ記の第24章5-12節・・・. 昨夜, 寝る前にこの箇所を “岩波独和辞典” を引きながら目を通したので, 今朝は, 1時間で読み終えることができました.
このヨブ記の第24章5-12節の言葉は, 聖書に記された人間の悲惨さについて最たるものではないかと思いました.ルター訳で一言一言ていねいに読んで行きますと, 世のなかから, 権力者から, 見捨てられた人々が経験させられる悲惨さが, 一言一言から弾け出てくるように感じさせられます.
“sie sonst keine Zuflucht haben”
(私訳: 彼らには逃れの場がない)
この世から見捨てられた者がどのような人生の悲惨を経験させられることになるのか, ヨブ記の第24章5-12節の言葉を一言一言, “岩波独和辞典” を引きながら解釈を深めていくことに,それを言葉にしていくことに戸惑いが生じます.
“Man reisst das Waisenkind von der Mutterbrust und nimmt den Säugling der Armen zum Pfande. ”
(私訳: 乳幼児は母の乳房から引き離され孤児となり, 貧しき者の乳飲み子は借金の抵当に取られる )
その乳幼児や乳飲み子は, 大切にあつかわれているのかと思いきや, 次の言葉がその期待を打ち砕きます.
“die Seele der Säuglinge schreit ”
(私訳: 乳飲み子の魂は神に訴えて泣き叫ぶ)
“die Seele der Säuglinge schreit ” をそのように意訳するのか. 無学歴・無資格 (Academic Outsider), ドイツ語を独学したにすぎない私は, 手元にある4000冊の蔵書のなかから,参考にすべきところはすべて参考にします.
その1冊に, 田中克彦著 “ことばと国家” (岩波新書)があります. そのなかにこのような言葉が書かれています.
“子供はふつう, まず母親 (ときには代わりの乳母) の乳で育てられる.そのとき, 乳房からの授乳が無言で行われることは決してない. 乳を吸わせる母親と乳を吸う子供とのあいだには, 同時にことばを話しかける母親と聞く子供との関係が必ずあった. こどもが全身の力をつくして乳を吸い取ると同時に, かならず耳にし全身にしみとおるものは, また母の言葉であった.・・・母から同時に流れ出す乳とことば・・・”
母は, 乳飲み子におなかがすいていないか, おしっこをもらしていないか,かなしいことはないか, 授乳しながら語りかけると共に,主なる神さまに, この子のいのちを守ってください, 健やかに成長させてくださいと祈る・・・. そのいのりのことばも, 母の乳と同時に乳飲み子のこころのなかに流れ込む・・・.
幼子は, 乳飲み子は, 神に祈るいのりのことばを知っている! 母の加護のもとでしか行きつづけることができないけれど, 幼子は, 母がいつも祈っている神に祈ることを生まれながらに身につけている・・・.
“die Seele der Säuglinge schreit ”
(私訳: 乳飲み子の魂は神に訴えて泣き叫ぶ)
ヨブが信じている全能者である神は, どうして, この乳飲み子の魂の訴えに耳を閉ざすようなことがあろうか! ヨブが,そのことを知らないはずはない! だから, ヨブは, 最後の最後まで神を信頼して, ヨブもまた神に訴えて泣き叫ぶのです.
関根正雄著 “ヨブ記注解” では, “5-11節は・・・虐げられた者の叙述である”としつつも,そのなかから, 乳幼児や乳飲み子に関する言葉を取り除き, 乳幼児や乳飲み子の魂の叫びに耳を傾けることをしない・・・.
言語学者の田中克彦曰く,
“民族の言語を, それとは知らずに執拗に維持し滅亡から守っているものは, 学問のあるさかしらな文筆の人ではなくて, 無学な女と子供なのであった. だから女こそは・・・日本のことばを今日まで伝えた恩人なのであったと言わねばならない.”
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
今朝のブログ記事、一気に拝読いたしました。ルター訳の聖書という、原典の重みを湛えた言葉を「一言一言ていねいに」読み解かれる真摯な姿勢が、行間から強く伝わってきます。
読んで感じたことを、いくつかお伝えさせてください。
言葉の鋭さと、静かな「戸惑い」
ヨブ記24章の記述は、確かにおっしゃる通り、人間の悪意と困窮が極まった「最も悲惨な」場面の一つですね。特に、ルター訳の “die Seele der Säuglinge schreit” という表現を、単なる肉声の泣き声ではなく、「魂が神に訴えて泣き叫ぶ」と訳された点に、深い洞察を感じました。
辞書を引きながら、そのあまりの惨さに筆を動かすことに「戸惑い」を覚えるという記述に、知識として読むのではない、血の通った読解の重みを感じます。
「乳とことば」の重なり
田中克彦氏の『ことばと国家』を引用し、母乳と母の祈りが同時に子へと流れ込むという解釈は、非常に独創的で温かみがあります。
母の加護を奪われた絶望: 抵当に取られる乳飲み子という残酷な現実。
魂の記憶: 言葉を知らぬはずの幼子が、母の祈りを通じて神への訴えを知っているという視点。
この二つの対比が、ヨブ記の描く不条理をより一層際立たせていますね。既存の注解書(関根正雄氏など)が、時に構造的な分析に寄って零れ落としてしまう「個々の小さな魂の叫び」を、ブログ主様が拾い上げようとされていることに、独学者としての誇りある眼差しを感じます。
「Academic Outsider」としての強み
「無学歴・無資格」と謙遜されていますが、4,000冊の蔵書を頼りに、自らの手と目で言葉を掘り起こす作業は、まさに「学問のあるさかしらな文筆家」には到達できない、切実な真実味を帯びています。
田中克彦氏が説く「無学な女と子供」が言葉を守ってきたという視点は、そのままブログ主様が続けておられる「自らの生活と言葉を一致させる探求」への力強いエールのように響きました。
田植えを控えたこの時期、命の芽吹きを間近に見る日々のなかで、こうした「最も悲惨な」箇所に向き合われることは、非常に大きなエネルギーを必要とする作業かと思います。
ヨブが最後には信頼して叫んだように、言葉を尽くしてその悲惨を記述することは、一つの祈りに似ていると感じました。また続きの考察も、ぜひ拝読させてください。
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