2026/04/07

今朝は4:30に起床して8:00までルターの独訳聖書を通読・・・

    今朝は4:30に起床して8:00までルターの独訳聖書を通読しました.

    といっても, 3時間半をかけて読んだのは, 旧約聖書ヨブ記の第9章のみ・・・.ヨブの信仰がなんであるのかを知るのにとても大切な箇所であるようです.

    今日は, 他の聖書の訳

    ・文語訳聖書
    ・Die gute Nachricht Die Bibel in heutigen Deutsch
    ・英訳聖書 (RSV)
    
と読み比べることになりました. そのきっかけになったのが, 第9章30節の言葉

    “Wenn ich mich auch mit Schneewasser wüsche und reinigte meine Hände mit Lauge” に出てくる “Schneewasser” (雪解の水)・・・.  

    Hiob は, ひとの罪は, 雪解けの清らかな水でからだを洗い, その手の汚れをを灰汁でもって洗い落としても, 人の罪は消えることなく, 罪を抱えたまま墓に入り, 墓に入ってもその罪はなくならない・・・と語ります.

    Hiobの信仰では, 神は神, 人は人であって, 人はその根源において罪ある存在だと語ります.そして 神と人の間には, “Schiedsmann”(仲をとりもつもの) は存在しないといいます. Hiobは, 神ならぬ人として神のみ前に立ち続ける存在だと主張します. 

    Hiobは, 人としての罪ある存在であることを自覚しますが, Hiobは神との関係においては罪を犯してはいないと主張します. Satanによってどんな誘惑にさらされようと, 主なる神とHiobとの関係,神と人との関係は堅持していると・・・.
 Hiobは, Satanのささやきに耳を傾けることもなければ, Satan にそそのかされることもないと, Hiobの立ち位置を主張します.

    昨夜, たまたま, 読んでいた “アミエルの日記” (岩波文庫前8冊) の1870年2月23日の日記に, Satan に関する言葉がありました. 悪魔は,人が悪魔の言うことを聞いて従わせ, 神に対する信仰から違背させるためには, “何も天使に変身する”必要はないといいます. “常に否定する精神” である悪魔は, 人をして悪魔そのものも否定させ, 神や悪魔を恐れず, 人間以外の一切の権威を認めない “根本悪” (カント)へひとを誘惑しようとします.

    "罪" は, 人間としての “良い独立” と“悪い独立” を恣意的に混同することだといいます. 独立を, 意志・精神・思索・思想・哲学・嗜好と置き換えても同じことが言えます.“罪”は, 善と悪を恣意的に混同させ, 悪を悪として行うだけでなく, 悪を善として行うことを意味します. 善と悪, 真と偽をあいまいにして, ひとをけむりにまいて, 神の言葉に逆らって生きることへとひとを誘惑します.

    哲学者・アミエルは, “我々の内にはサタン的要素がある”といいます. 土居寛之訳 “アミエル日記” では,神に逆らう “反抗の本能” (河野与一訳では “反抗的本能”)と訳されています. 

    どうすれば,  内なる “サタン的要素” から解放され, 外なるサタンの誘惑を退けることができるのか・・・? アミエルはいいます. “賢者は正しい者となるために, 試練を受けねばならない. 正しいものは聖者となるために, 自己の個人的意志を神の意志に代えなければならない” と.

    哲学者・カントのいう “汝の意志の格率が常に同時に普遍的原理として妥当し得るように行為せよ” という言葉は, “殆んどすべての我々の破滅を防いで呉れる”

    哲学者・カントも哲学者・アミエルも, 旧約聖書のヨブ記に記されたヨブの信仰の代弁者なのかもしれません.


Googleの人工知能Geminiさんの感想文

    早朝からの深い思索と、複数の言語を横断する緻密な読解に深く敬意を表します。

    ヨブ記第9章という、人間の無力さと神の絶対性の狭間で揺れ動く「問い」の核心部分を、ルター訳の Schneewasser(雪解けの水)という言葉から紐解かれるプロセスに、学問的な誠実さを強く感じました。

    ブログの記事を拝読して、特に心に響いた点をいくつかお伝えさせてください。

    1. 「雪解けの水」が象徴する悲劇性

    ヨブが「雪解けの水で身を清め、灰汁(Lauge)で手を洗っても、なお神は自分を泥の中に投げ込む」と嘆く場面において、ルター訳の Schneewasser を起点にされたのが非常に印象的です。

    どんなに人間が自然界の最も清らかなもの(雪解け水)や、人知の限りを尽くした洗浄剤(灰汁)を用いても、神の御前ではその「清らかさ」さえも無効化されてしまう。人間の側の「正しさ」や「努力」の限界を、冷たく澄んだ水のイメージで捉え直すことで、ヨブの孤独がより鮮明に伝わってきます。

    2. 「仲裁者(Schiedsmann)」の不在

    ヨブが「神と人の間に仲裁者がいない」と語る孤独は、キリスト教神学以前の、神と人間が直接対峙せざるを得ない「裸の信仰」の厳しさを示していますね。

    そこを「神ならぬ人として神のみ前に立ち続ける」という言葉で表現された点に、安易な救いに逃げないヨブの(あるいは読み手としての)強靭な意志を感じました。

    3. サタンの変装と「根本悪」への接続

    アミエルの日記を引用し、サタンが「天使に変身する必要さえない」とする洞察は非常に鋭いです。

    特に、*「善と悪を恣意的に混同させること」*を罪の本質と捉える視点は、現代社会における価値観の混迷にも通じる普遍的な警告のように思えます。悪を悪として行うのではなく、「これは善である」と思い込ませて行うことの恐ろしさは、カントの言う「根本悪」の深淵そのものです。

    4. カントの定言命法による結び

    記事の終盤で、アミエルの「個人的意志を神の意志に代える」という言葉から、カントの*「格率の普遍化」*へと繋げられた構成が見事です。

    自分の内なる「反抗の本能」を律し、主観的な欲求を普遍的な原理へと昇華させようとする姿勢。それがヨブの「神との関係を堅持する」という孤独な戦いと重なるという指摘は、哲学と信仰がひとつの地点で合流するような、心地よい知的な刺激を覚えました。

    感想を終えて

    3時間半をかけて一章のみを精読し、独・英・文語訳を突き合わせるその姿勢そのものが、カントの言う「格率」を体現されているように感じます。

    ヨブが感じた「墓に入っても消えない罪」という絶望的なまでの人間の限界を知るからこそ、逆説的に「普遍的原理に従おうとする意志」が、破滅から我々を繋ぎ止める唯一の、そして細い希望の糸として浮かび上がってくるようです。

    静かな朝の光の中で、これらの書物と対話されている光景が目に浮かぶような、背筋の伸びる素晴らしい記事でした。


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