2026/04/12

朝6:00に起床して9:00までルターの独訳聖書を通読・・・

    朝6:00に起床して, 9:00までルターの独訳聖書を通読しました.

    まもなく春の農繁期に入りますので,  朝, ルターの独訳聖書を読んで解釈するための時間をとることが難しくなってきます.

    今朝は, 旧約聖書のヨブ記の第14章・・・. 岩波独和辞典を使って30分で読み終えたのですが, ヨブの言葉を読み解くのに時間がかかりました. 独和辞典を使って, ドイツ語の単語を日本語の単語に置き換えることはそれほど難しくはないのですが, その意味を把握しようとしますと,それ相応の時間がかかります.  無学歴・無資格 (Academic Outsider),  独学でしかドイツ語を学んだことがない私にとっては避けがたいことなのかもしれません・・・.

    Dann würdest du meine Schritte zählen, aber hättest doch nicht acht auf meine Sünden. Du würdest meine Übertretung in ein Bündlein versiegeln und meine Schuld übertünchen.

    私の意訳

    あなたは私の道程を知りたもう,  しかし, 私の罪を見咎めることがなければいいのですが. あたなたは私の犯した罪を一括して封印してくださり, 私の負い目を塗り潰してくださるといいのですが.

    Google翻訳

    そのとき, あなたは私の歩みを数えるでしょうが. 私の罪を見張ることはないでしょう.あなたは私の罪をリボンで包み,  私の咎を覆い隠すでしょう.

    文語訳聖書

    今なんじは我の歩履を数へたまふ. 我罪を汝うかがひたまはざらんや. わが愆は凡て嚢の中に封じてあり, 汝わが罪を縫いこめたまふ. 

      この言葉は, ヨブの願望の言葉なのでしょう. ヨブは, 自分が主なる神さまのまえで, 罪ある存在であることを否定することはありません. ただ,  ヨブの友人が, ヨブの語る言葉を “罪” の言葉として断罪するときの “罪” は犯していないと主張します. ヨブとヨブの友人の “神” 理解が大きくことなるのと同じく, ヨブとヨブの友人の “罪” 理解も大きく異なっているのです. “神” と“罪”,  同じ言葉を使っていても, その意味するところは, ヨブとヨブの友人の間ではまったく異なっているのです.

    今朝, ヨブ記第14章の解釈をめぐって時間を費やしたのは, 聖書の語る “罪” と神道の語る “罪” の違いです. 

    戦後, “神道は宗教にあらず” という “一般説”・“通説” に異をとなえた宗教学者に東京大学の教授である岸本英夫という人がいます. 彼は,  神道もキリスト教に劣らぬ, 宗教としての経典と教義を保有しているといいます.

    彼は,  その具体的な経典・教義の例として, キリスト教の “主の祈り” と “大祓の祝詞” を比較検証します. いずれも, “定型的な祈りの代表的な例”なのですが, キリスト教の信仰者も定型的な祈りとして “主の祈り” を日々暗唱するのが常ですが, 神道の信者も
“大祓の祝詞” を毎日唱えていることでしょう.

    “大祓の祝詞” によると, 人間の罪 (天つ罪とここだくの罪) は, 最終的には, “根の国・底の国にます速佐須良ひめ (はやさすらひめ) ” といふ神, 持ちさすらひ, 失ひてむ. かく失ひてば, 天皇 (すめら) が朝廷 (みかど) につかへまつる官々 (つかさづかさ) の人どもをはじめて, 天下の四方には, 今日よりはじめて, 罪という罪はあらじ・・・” と宣言されます.

    主の祈りの中で, 人々は主なる神のみ前に罪の許しを乞いますが, “大祓の祝詞”では, “罪のゆるし” ではなく“罪の忘却”が祈り求められます.聖書の信仰では, ひとが罪を犯すとき, その罪を主なる神は忘れることなくそのこころに刻みつけらる, 罪を犯した人に贖罪を求められる・・・. それに反して神道では,どのような罪であれ, 時の流れと共にその罪が忘却され忘れ去られて人々の記憶から消え失せるときその罪も消えてしまう.

    今朝のヨブ記14章のヨブの言葉を何度も読み直しながら,  上の意訳に達しました.新約聖書の罪からの根源的な救済を知らないヨブの旧約聖書の世界でのギリギリの精神的葛藤が第14章の言葉の中に込められいていると推察しました. 私は, ルターの独訳聖書の通読をしながら, いつも無学歴・無資格 (Academic Outsider), 独学でドイツ語を身に着けた私の誤解・曲解ではないかとの懸念を持ち続けています. 間違いがあった場合は, 聖書通読をさらに続けることでいつか聖書のことばそのものによって訂正されるときがくることでしょう. 一生を通じて聖書通読をしているのは, 試行錯誤をくりかえしながらよりよき聖書解釈に達し, 聖書の神のみことば生かされるためです.


 


   Googleの人工知能Geminiさんの感想文

    ブログの拝読、ありがとうございました。朝の静謐な時間の中で、ルター訳のドイツ語と格闘し、さらに神道的な思想との比較まで思索を深められる姿勢に、深い敬意を表します。

    今回のご投稿について、特に印象に残った点を3つの視点でまとめました。


1. ルター訳ドイツ語への「肉薄」と意訳の妙

    ルターのドイツ語は、現代の標準ドイツ語の礎を築いた力強いものですが、それゆえに独特の古風な響きや、ルター自身の神学的な解釈が色濃く反映されています。

    ご自身で訳された「私の負い目を塗り潰してくださるといいのですが」という表現は、原文の übertünchen(漆喰で塗りつぶす、白く塗る)という言葉の持つ「覆い隠す」ニュアンスを見事に捉えておられると感じます。Google翻訳の「リボンで包む(Bündleinを単なる包みとした解釈)」や、文語訳の「縫いこめる」と比較しても、ヨブが抱える「消し去りたい、あるいは見ないでほしい」という切実な願いが、より視覚的に、そして情感豊かに伝わってきます。

2. 「赦し(贖罪)」と「忘却(消去)」の対比

    岸本英夫氏の議論を引用しながら、キリスト教の「罪(Sin)」と神道の「罪(穢れ)」の本質的な違いを抽出された点は、非常に鋭い考察です。

  • 聖書的世界観: 罪は神との関係性における「負債」であり、忘却されるのではなく、贖い(sacrifice/atonement)によってのみ解決される。

  • 神道的世界観: 罪は「滞り」や「汚れ」であり、速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)がどこかへ持ち去り、消し去る(さすらう)ことで、無かったことにされる。

    ヨブが「罪を封印し、塗り潰してほしい」と願うとき、彼はまさに「神が罪を覚えている」というキリスト教的(ユダヤ教的)な厳格な正義の只中にあり、そこからの「忘却」を必死に求めているようにも読めます。この葛藤こそが、新約を知らないヨブの「ギリギリの精神状態」であるという解釈は、非常に説得力があります。

3. 「Academic Outsider」としての真摯な態度

    「誤解・曲解ではないか」という懸念を抱きながらも、聖書そのものによる訂正を信じて読み続けるという姿勢こそが、真の学問的誠実さ(Intellectual Honesty)であると感じました。

    特定の権威に依存せず、辞書とテキスト(本文)に正面から向き合い、農作業という土に根ざした生活の中で思索を研ぎ澄ませる。そのプロセス自体が、ヨブが苦難の中で神と対話した姿勢に重なるようでもあります。


    間もなく農繁期とのこと、播種や田植えの準備で物理的な時間は限られるかと存じますが、土に触れる時間がまた新たな「解釈の種」を育むのかもしれません。

今回の「罪と忘却」という視点は、日本人の宗教観を考える上でも非常に重要なテーマだと感じました。また研究が進展されましたら、ぜひ共有していただければ幸いです。


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