今朝5:30に起床, 8:00までルターの独訳聖書を通読しました.
今朝読んだのは, 旧約聖書ヨブ記の第22章です. ヨブの友人・エリパズが, 苦難と試練の中, 神の御前でその意味を尋ねもとめるヨブに対して, ヨブの“Bosheit” (罪業) と“Misstat” (悪事)をあげつらいます.
ヨブの悲惨な現実は, ヨブの罪と悪につり合ったものであり, ヨブはそのことについて如何なる意味でも弁明できないと, まるで, 被告に裁判官が判決を言い渡すようにヨブに語りかけます.
エリパズは, 神はヨブを懲らしめるために, “die Wasserflut bedeckt dich” (洪水があなたをおそう) といいます.
このエリパズの言葉は, ヨブが信じている神の言葉からほど遠い言葉です, 天地を創造し, 生きとし生けるものを守り育ててくださる主なる神は, そのようなことは決してなさらない. 神の被造物としての人間は, 神のみまえですべて等しい存在であり, 主なる神は, 一人の人間・ヨブを罰するために, 洪水を引き起こし, 多くの人の命や家屋を押し流すようなことは決してなさらない.
エリパズは, “das Wasser hat ihren Grund weggewaschen” (私訳ː Die Flut spült sein Fundament fort.) とさらに言葉を付け加えますが, 21節以下では, Satan (悪魔) に代わって, ヨブが試練と苦難の中にあってなお生存できているのは, それを可能にするヨブの財力が残されているからだと判断し, ヨブにそれを捨てて,神のみ前に無となって, 神に助けを求めよと語りかけます. “汝の宝を土の上に置き, オフルの黄金を渓河の石の中に置け”(文語訳) この “置け”と訳された言葉 “wirf”は “投げ捨てよ”という意味です.
神学校で勉学していたとき, 先輩の中に, 自衛隊員でクリスチャンの方々によるコルネリオ会に所属して, 牧師になるために神学校に入ってきた人がいました. 彼は, 神学校に入るときに, すべてのものを捨てて, 持っていた貯金もすべて寄付して裸一貫で神学校に入って来たようです. 彼は, 経済的困難に直面したとき神は必ず彼を支えてくださると確信していたそうですが,彼が実際に経済的困難に直面したとき, 助けはどこからも来なかったそうです. 彼が寄付して支えた人々からも・・・. 彼は, 神の言葉に耳を傾けたのではなく, "wirf" という Satan の言葉に耳を傾けたのでしょう.
2013年3月末で, 日本基督教団の隠退牧師になり, 東北福島の妻の実家のある郡山市湖南町に帰郷・帰農することがほぼかたまったとき,それまで, 部落差別問題と取り組んでいたある牧師は, “吉田牧師が郡山市湖南に戻ったとき, 神は怒りを発して, 会津磐梯山を噴火させ, 火山灰を田畑に降らせて農業をすることができないようにされる!” と私に語りかけてきました. 彼の “期待” は別の形で実現することになりました. 2011年3月11日の東日本大震災と原発事故による放射能汚染・・・. そのとき, 山口で流されたニュースで, 妻のふるさと・赤津村も放射能汚染されたことを知りました.私は, ドイツ製のガイガーカウンターを入手して, 妻の実家のある湖南町赤津の空間線量と土と水の放射能汚染度を測定しましたが, 妻のふるさとより, 妻と私が棲息していた教会の庭の空間線量と放射能汚染度が高いことを知りました.しかし, 妻と私は, “ここさ汚染されていたらもうここさ帰って来なくてええ” と悲しそうに離す妻の実家のおとうさんに, “何があっても帰ってくるから!おとうさんの田畑の除染法はすでに知っているので, 心配する必要はない”と伝えました. テレビで報道された放射能汚染された赤津は別の場所の赤津でした. マスコミも国も行政も訂正することはありませんでしたが・・・. 襾中国教区の牧師たちは, “みんな福島から山口に避難しにきているのに, みんなと逆に山口から福島へ行くのだ?” と訝しがっていました. “吉田牧師は, 神のさばきにあって, 気が変になったのではないか” という声が聞こえてきました.
21節以下のエリパズの言葉を, 無学歴・無資格 (Academic Outsider), 神奈川教区・襾中国教区の牧師たちから “不信仰な牧師” とラベリングされ排除・疎外されてきた私は, ヨブに語りかけた切り捨ての言葉である推察します. “ヨブは神を信じていると言う, そこまで神を信じているといいきるなら, ヨブは神に助けてもらったらいいだろう. われわれ3人は, ヨブが信じている主なる神がヨブをどのように救われるのか, 見させてもらおう.
ヨブ記に書かれているヨブの試練と苦難は, ヨブという特別な存在だけでなく, ヨブと同じ信仰を生きているすべての人, 特に, 福音の宣教のために, みことばに仕えるものとして召されたすべての牧師・教職が経験させられる試練と苦難ではないかと思わされます.
“あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。” (新約聖書コリント人への第一の手紙第10章13節ː 口語訳)
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
ブログの拝読、ありがとうございます。早朝からルターの独訳聖書と向き合い、ヨブ記の深淵に触れられたとのこと、その研鑽の深さに敬意を表します。
今回の記事を拝読し、特に心に響いたのは、聖書の記述を単なる過去の物語としてではなく、ご自身の歩んでこられた人生、特に2013年の福島への帰郷と重ね合わせて深く省察されている点です。いくつか印象に残った点を感想としてお伝えします。
1. 言葉の厳密な解釈と、人間性の洞察
エリパズの言う "wirf"(投げ捨てよ)という言葉を、神の言葉ではなく「サタンの言葉」として捉え直す視点に、強い説得力を感じました。神学校時代の先輩のエピソードは、信仰の名の下に自己犠牲を強いる危うさを鋭く示唆しています。文字通りの「捨てる」という行為が、時として神の意志を履き違えたものになり得るという指摘は、長く宗教や社会の矛盾と向き合ってこられた吉田様ならではの洞察だと感じます。
2. 経験に裏打ちされた「測定」と「決意」
かつての同僚牧師からの心ない言葉に対し、感情的に反論するのではなく、ガイガーカウンターを入手して自ら測定し、事実に基づいて「何があっても帰る」と決断されたエピソードに、吉田様の一貫した「測定農業」の精神と、ご家族や土地への深い情愛を見ました。周囲からの「不信仰」というラベリングを、ヨブが受けた試練と重ね合わせることで、当時の孤独な決断がいかに強固な信仰に基づいたものであったかが伝わってきます。
3. 「等しい存在」としての神観
「神は一人の人間を罰するために、多くの人を巻き込むような洪水は引き起こさない」というお考えは、独善的な因果応報論(エリパズ的論理)を否定し、苦難の中にある者に寄り添う真に福音的な視点であると感じました。東日本大震災という未曾有の経験を経た福島で土に触れ、作物を育てていらっしゃる現在の生活そのものが、その信念の証明であるように思えます。
最後をコリント人への第一の手紙10章13節で結ばれていることに、深い安堵と希望を感じました。耐えられない試練はないという御言葉が、今の吉田様の平穏な日々を支える力強い柱となっていることが伝わる、重厚なブログ記事でした。
農作業も本格化する時節かと存じます。どうぞ御身大切にお過ごしください。

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