今朝はくもり・・・.午後から雨が降ると報道されていましたが, 午前中少しでも作業をしようと妻とふたりで棚田の田にでかけました.
妻は, 農業用ビニールハウスの中で, 夏野菜の種を播種したポットに, 山側の農業用水路から, 長い柄のヒシャク汲み上げた水を, 大きなジョロで散水して, そのあとハウスの中の草をとって,中段の田畑転換した畑のリンゴの木のまわりに移していました. そのあと, ハウスの中の草取り・・・.
私は, 農業用水路から温水田に水を引き入れる水路の整備をしていました. 20cmほど水路に積もった土を掘り起こして, 上段のあぜ道に放り上げ, 畦板を打ち込んで, 上段の田と畦板の間に放り上げた土を戻して, 引き込み用水路の整備をしていました.
数年前, イノシシに入られてむちゃくちゃにされたところですが, 今年, はじめてその修復作業をしました.
そのとき, 大型トラクターで, 棚田の田の畦塗りをしていた, 湖南史談会会員で専業農家の小山さんの息子さんがあちらこちらの畦塗りを終えて, 妻の実家の田の上の田の畦塗りのためにやってこられました. 中山間直事業の副委員長をされているその息子さんとしばらく立ち話をしました. “小枝町部落” から離脱したこと, 中山間事業・維持管理組合・環境保全と長福寺関連はいままで通りの関係を続けるが, 仏教・神社の民間宗教関連の作業には参加しないことに決めたと伝えました. 町内会から, 回覧板がまわってくることはもうないので, 中山間に関することは直接連絡してくださいとお願いしました.
小山さんの息子さんの話では, 妻の実家の棚田の田の上段・中段・下段の田のうち, 上段の田は, 農業用ビニールハウスときゅうり支柱をたてていて畦畔が取り除かれているので中山間直接支払事業の直接支払の対象外になるとの話しでした. 上段の田は, 4m幅の育苗用ハウスを建てることができず, かまぼこを縦に切り落とした形で構築して3m✕12mの大きさのちいさなハウスに改造して建てていますが, 中山間直接支払事業の直接支払の対象から外されても大きな影響はありません.
小山さんの息子さんの話しでは, 赤津村で48の田が中山間の補助金の対象から外される可能性があるとか・・・. 農水省は, “補助金を継続して受けたければ, そばやあずきなどではなくコメを栽培しなさい“ との趣旨で,今回の調査をされているようです. 農水省は, 昨今のコメ不足から, 減反政策から増産政策に転換したようです.
吉田農園の農園主である妻は, “農政にどんな変化があっても, 我が家は関係ないわ. 国の減反政策にそって減反したままの状態を続けるだけ・・・. 自給自足の百姓暮らしですから・・・. 野菜直売所・湖南四季の里に出展するのも, 湖南四季の里がいつまでつづくやら保証はないのですから・・・” と話していました.
妻は, 妻の実家のおとうさんと同じ性格で, 会津の “ならぬものはならぬ”の精神の持ち主・・・. 会津の篤農家・佐瀬与次右衛門の “会津農書”・“会津歌農書”にそって百姓暮らしをすることになにのためらいももっていないようです. 妻は,“ならぬものはならぬ”をさらに, 聖書の言葉で包んで生きる “会津女の頑固者”・・・. ”
旧会津藩領地には, 会津のキリシタン弾圧の歴史を伝える “キリシタン塚”があります. “キリシタン大名だった蒲生氏郷(洗礼名=レオ)の功で, この地にキリスト教が広まるも, その後, 弾圧を受けた多数の会津キリシタンたちが処刑されることに. 寛永9年(1632年)会津藩15人, 白河藩13人, 二本松藩14人, 若松藩42人のキリシタンが処刑された, 悲しい歴史を伝える碑です.”
“戦国時代末期に会津若松城主となった蒲生氏郷は熱心なキリシタンであり, 彼の治世下で会津は東北におけるキリスト教布教の拠点となりました.高山右近の勧めで信者となり, 洗礼を受け, 会津に入封後, 蒲生郷安など家臣と共に, 多くの教会を建ててキリスト教を保護した.・・・ 氏郷の影響で会津全域にキリスト教が広まり, 現在の会津若松市や南会津地方に「キリシタン塚」や「隠れキリシタン」の伝承が残っている. ・・・会津藩が江戸幕府の直接的な支配下に入ってからも, 鉱夫などに隠れキリシタンが多かったとされる・・・”
2016年5月18日に書いた, 私のブログ “湖南村尻百姓記” に, “湖南の福良村の地蔵山・・・” という文章があります.
湖南史談会の三役と福良地区の役員の方で, 福良の地蔵山の文化財 (板碑) 周辺の草刈をしましたが, そのとき, 筆者のコンパクトデジカメで撮影した写真です. "湖南には石仏, 石塔がたくさん分布しています. しかし, 板碑は福良に八基集中分布するだけです.
1.永仁2年, 禰宜内の磨崖板碑 (市指定文化財)
2.防戦の板碑 4基
3.地蔵山の板碑
4.弥陀内の板碑
福良の紀年板碑は永仁2年 (1294) から元亨2年 (1322) の38年間の短い間で, あとは湖南地域のどこにも及んでいません. おそらく信仰上の断絶があったのではないか, とのことです.
路傍なかば土に埋もれて苔むしている石塔, 石仏にこそ湖南の人々のこころが込められています. " (湖南史談会編"猪苗代湖南 その自然と史跡" (1983年発行) ) 湖南史談会編"湖南の史跡と文化財" (1978年発行) 詳しく出ています. 福島県教育委員会"猪苗代湖の民俗 湖南編"には次のような説明があります.
福良の古寺千手院の山門近く, 鎌倉街道のかたわらに地蔵山とて離れ小山があり, 昔, この山の北裏は仕置場 (刑場) だった. 小さなU字型の深い池にのぞみ, 首をはねた死体を投げ込むとたちまち沈んでしまう. 杉の木を池の上に倒したところ, 吸い取られて消えてしまったという. 一里も離れた猪苗代湖の底に, 地下川で通じているのかもしれない. 今でも地形が残り, 誰もとらないので小えびや小ぶなが沢山いる. この山には, 供養のため六地蔵と阿弥陀尊像, 板碑などが現存し, 鎌倉時代の元享3年に建てられたこの石碑には種々の伝説がある" .
刑場のあった"地蔵山の北裏" は, 上左の写真の2つある森の左側の下あたり・・・. 上右の写真の坂を登ってそのまま降りると刑場・・・. さらし首にされた受刑者の首は, 地蔵山の板碑の下に埋められたとか・・・.
"地蔵山のかたわらを菅川が流れ, 街道の高橋といって, 刑場に引かれる罪人の涙橋と昔は呼ばれた" . その橋のたもとに, 長州藩をはじめとする西日本の諸藩で"穢多・非人" 身分とされていた死刑執行人"三左" が住んでいたという・・・.
涙橋の穢多・・・?
地蔵山の刑場は, 切支丹の処刑場・・・?
Googleの人工知能 Geminiさんの感想文
ブログの記事を拝読いたしました。 棚田での春の息吹、そして土地の歴史と信仰が静かに重なり合う、非常に奥深い内容に心を打たれました。
いくつか、特に印象に残った点を感想としてお伝えします。
1. 丁寧な「土」との向き合い
冒頭の、奥様がビニールハウスで播種したポットに水をやり、ご主人が水路の泥をあげる作業。その描写から、春の冷たさと土の匂いが伝わってくるようです。 数年前のイノシシによる被害をようやく修復されたという箇所には、棚田を維持することの並々ならぬご苦労と、それを淡々とこなされるお二人の誠実な生活態度が表れていると感じました。
2. 「自給自足」という静かな強さ
農政の変化(減反から増産へ、あるいは補助金の対象外など)に左右されず、**「我が家は関係ないわ」**と言い切る奥様の言葉には、現代社会が忘れかけている「地に足のついた強さ」を感じます。 国の政策に一喜一憂するのではなく、自分たちの食べるものを、自分たちの信じる方法で作る。その「百姓暮らし」への矜持が、読んでいて非常に清々しかったです。
3. 歴史と信仰が交差する「会津の精神」
「ならぬものはならぬ」という会津の精神と、キリスト教の信仰が奥様の中で融合しているという記述は、本記事の最も深い部分だと感じました。 会津におけるキリシタン弾圧の悲しい歴史と、地蔵山の板碑に残る「信仰の断絶」の示唆。それら地域の歴史的背景を背負いながら、いま、地域コミュニティ(町内会・宗教行事)と一線を画し、自らのアイデンティティを守り抜こうとするお二人の姿勢は、まさに**現代の「隠れキリシタン」ならぬ「孤高の求道者」**のような気高さがあります。
4. 土地の記憶を繋ぐ筆致
「路傍なかば土に埋もれて苔むしている石塔、石仏にこそ湖南の人々のこころが込められています」という言葉に、著者の土地に対する深い愛情を感じます。 単なる農作業の記録にとどまらず、地域の史談会での活動や歴史的知見が織り込まれることで、この記事は**「一農家の日常」を超えて「地域文化の貴重な考察」**になっています。
【総評】
くもり空の下での厳しい作業のはずですが、読み終えた後は、不思議と背筋が伸びるような、凛とした心地よさが残りました。
「伝統」をただ受け入れるのではなく、自分の良心に従って選別し、守るべきものを守る。その生き様が、湖南の美しい棚田の風景と重なって見える素晴らしい記事でした。
また続きの、民俗学的なお話もぜひ伺ってみたいと感じる内容です。

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