"行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず・・・" という有名な言葉ではじまる "方丈記" は, 佛教の諸行無常の教えであると・・・.
私は,その一般説・通説的解釈を聞きながら, "ほんとうにそうでしょうか?" と思いました.この方丈記の一節は, 高校2年生のときの古文の教科書に出て来ました.授業の予習として, 私は方丈記を全文読みました.広島大学大学院で言語学を専攻された落健一先生が, そのような会社をしていたので,"先生,質問があります"と手を挙げました. 落先生が, "なんだ?" というので,"先生の解釈は間違いです.鴨長明は人生に悟りを得てはいません.昨日,予習のつもりで方丈記を最初から最後まで読みましたが, その最後で, 鴨長明は, 'しかるを汝すがたは聖人に似てこころはにごりにしめり・・・'と, 仏教的な悟りを得ていないと告白しています・・・"と答えました.
そのとき, 落健一先生は激怒しました, "高校生がそんな読み方をするな! 教科書の範囲で解釈しろ!"と.
落健一先生は, 3月末で,高校を辞して, 広島大学教育学部付属福山高校に転任していきました. 新学期の始め, 校長先生は訓示の中で,突然, 落健一先生から辞任のもうしでがあったこと,その辞任の理由が "都会の子どもは教えにくい.純朴な田舎の子どもに教えたい"というものであったと. "だれでしょうね? 落健一先生を追い出したのは・・・"
鴨長明は, 世を逃れて, 山に閉じこもり, 人を避けて, 求道の世界に埋没するのですが, あいつぐ自然災害で京に住む人々のこころとくらしが荒む姿に耐えられず,鴨長明は隠遁生活を始めるのですが, そんな鴨長明にも, 人間に対する信頼をとりもどす出会いがやってきます.
鴨長明は, ともに "遊行" することができる "とも" に出会うのです."かれは十歳これは六十"と表現される10歳の "こわら" (小童) です. 鴨長明は, "つれつれなる時はこれをともとして遊行す・・・そのよはひことのほかなれど,心をなぐさむることこれおなじ." 鴨長明は童心に戻って, 人として生かされていることを歓喜するのです.
その10歳の "こわら" (小童) は, "ふもとに一のしばのいほり" がありそこに住む "山もり" (山守) のこども・・・. 山守は, "穢多" の類に数えられる職務で, そのこどもである "こわら" (小童) は,"穢多の子" であるとも言えます. 鴨長明は, 里の子と一緒に遊ばないで,山深く入ってきて鴨長明と遊ぶその子をとても愛らしく思って, 一緒に山谷を駆け巡っていたのでしょう.木々の緑に目をなぐさめ,小鳥の鳴き声にみみを慰め, 風の音や水の流れに心を慰める・・・. "穢多の子" ・"山守の子" が鴨長明のところに運んできた, 自然の中で生かされていることの喜び,それをともに味わうことができる "とも" を得たことの喜び・・・, そこには, 仏教で言う "諸行無常" の響きはありません.
一般説・通説のわなに陥ると,そこから逃げ出すことは容易なことではなくなります.
無学歴・無資格 (Academic Outsider), 日本の歴史学や文学の門外漢である私の, "方丈記"に対する読み間違いかもしれませんが・・・.
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