2025/12/05

サムエル記下の最後の第24章は難解・・・

    今朝, 5:30に起床して8:30まで,ルターの独訳聖書を通読しました.

    今朝読んだのは, ムエル記下の最後の第24章・・・.岩波独和辞典とCASIOの電子辞書のアクセス独和辞典をひもときながら読んで行ったのですが, 第24章が何を語りかけてきているのか,ほとんど理解することができませんでした.

    無学歴・無資格 (Academic Outsider)の乏しい独語力では理解できないのかもしれません.

    サムエル記下の最後の章は, もっとも難解な箇所であるようです.

    第24章は,"der Zorn des HERRN entbrannte abermals gegen Israel" (イスラエルに対して再び神の怒りが燃え上がった) と言う言葉ではじまっていますが, 主なる神が,イスラエルの何に対して怒っているのか,その理由が書かれていません. 漠然とは推測できるのですが, 予見をもちこまないでこの言葉に向かい合いますと,神の怒りは,Israel に向けられたもので Juda に向けられたものではないと推察できます.

    そこで, 主なる神は, ダビデをして,Israel の民に対して "reizen" させた.

     "reizen" が何を意味しているのか,独和辞典を読んでもなかなか納得の意味を手にすることがで来ません. "Oxford German Dictionary" の "jmdn. zum Zorn reizen" という例文から, "er reizte David gegen das Volk " と言う言葉に "
zum Zorn" と言う言葉を補って,"er reizte David zum Zorn gegen das Volk " として解釈しますと, "主なる神は, ダビデを煽って,イスラエルの民に対して不快の念を持たせた"と言う意味になります.

    無学歴・無資格 (Academic Outsider),独語力の乏しい私ならではの "誤訳" なのかもしれません.

    主なる神は,ダビデに,イスラエルとユダの人口調査をするように命じます. 
 そのとき,ダビデは, 主なる神に,"何のために人口調査をするのか","どのように人口調査をするのか"・・・,尋ねることはありませんでした. ダビデは, その家臣団に人口調査の対象と方法を丸投げしたのでしょう.

    そのため,家臣団は,イスラエルとユダに対する人口調査を,イスラエルとユダだけでなく,イスラエルとユダをとりまく,ダビデ王朝の支配下にあった他の民族の人口調査をも行うことになりました. その結果,家臣団は,イスラエルとユダの住民数だけでなく兵員数(イスラエルとユダの軍事力)の調査結果をダビデのもとにもたらすことになります. ダビデは, その調査結果から, 諸民族の間におけるイスラエルとユダの軍事力のちいささ,イスラエルの軍事力に対して,ダビデが率いるユダの軍事力のちいささを数字の上で具体的に知ることになったのではないかと思います.

    "das Herz schlug David" (ダビデはそのこころを打ちのめされた)

    その衝撃の大きさは,ダビデの主なる神に対する告白の言葉に込められています. "ich habe schwer gesündigt" (私は大きな罪を犯しました). そのダビデの大きな罪と何だったのか・・・.

    ・ダビデは主なる神からイスラエルとユダの人口調査をしろと命じられてそれを行うのですが, ダビデはそのような調査を行うことを命じてた神のみこころを尋ねようとはしなかった.

   ・ダビデの家臣団に対するあいまいな命令は,イスラエルとユダだけでなく,支配下にある他の民族の人口調査にまで及んだこと.

    ・ダビデの家臣団は, 人口調査を軍事力の調査として実施したこと.

    ・ダビデがその軍事力の調査結果を受け取ったとき, ダビデとユダ民族の軍事力のちいささに衝撃を受けて, 精神的に打撃を受けたこと.

    ・ダビデは, 他の民族との戦いは, ダビデ王朝の軍事力によってもたらされたものではなく, "万軍の主"である主なる神の支援との共闘によって勝利をがもたらされていたことを失念したこと.

    ・ダビデ王朝の最高権力者であるダビデの慢心と不信は, イスラエルとユダの民の上に, とりかえしのつかない,耐え難い災いをもたらすことになること.

    ダビデの人生の晩年は, 順風満帆とはならなかったようです. 今日の聖書の言葉に続く言葉は,

    "König David alt war" (ダビデ王は年老いた)

    旧約聖書のサムエル記下の最後の章を読み終えたとき,私は, ダビデはまことの求道の人であったと思いました.

    読みながら,頭に思い浮かんできたのは,"方丈記" の著者・鴨長明の言葉です.その最後に,鴨長明はこう綴っています. "みづから心に問ひていはく,世をのがれて山林にまじはるは,心ををさめて道を行はむがためなり. 然るを汝が姿はひじりに似て,心は濁りにしめり.すみかは則ち浄名居士のあとを怪我せりといへども, たもつ所はわづかに周梨槃特が行にだも及ばず.もしこれ貧賤の報いのみづからなやますか,はた亦妄心のいたりて来るはせるか, その時こころ更に答ふることなし・・・" 

    人生の晩年において,ダビデが,自らを,功なり名をとげた, イスラエルとユダの聖人でもなければ君子でもない,ひとりの人間として,主なる神のみまえに,ひとりの罪人として立ち,主なる神にその許しをこわなければならないひとりの人間として悔い改めの道をたどることは, 聖書の神に対する "求道者"でしかないことを示しています

    サムエル記下の最後の第24章は, とても難解な箇所です. 読むひとの信仰と生き方,ものの見方や考え方によっていろいろな意味合いをもって来ます.78歳の日本基督教団の隠退牧師である無学歴・無資格 (Academic Outsider)の私は, 乏しい独語力で,ルターの独訳聖書をそのように読みました.



Googleの人工知能Geminiさんの感想文

ブログ記事を拝読しました。サムエル記下第24章の難解な箇所に、真摯に向き合われている姿勢に感銘を受けます。


🧐 感想と考察

1. 難解な箇所への真摯な取り組み

まず、早朝からルターの独訳聖書を辞書を引きながら精読されていること、そしてその上で「難解」であることを率直に認められている点に、求道者としての謙虚さを感じます。特に、聖書冒頭の「神の怒り」の理由が明示されていない部分や、「reizen」の解釈に深く踏み込んでいらっしゃる点が、このテキストを深く理解しようとする強い意志を示しています。

2. 「reizen」の解釈と「誤訳」の謙遜

「reizen」の解釈については、独和辞典の例文から類推し、「主なる神は、ダビデを煽って、イスラエルの民に対して不快の念を持たせた」と解釈された点、大変興味深く拝見しました。

  • 一般的な解釈: この箇所(サムエル記下24:1)のヘブライ語原文(新共同訳や口語訳の底本)では、「が再びイスラエルを怒り、ダビデをそそのかして言われた。『行って、イスラエルとユダの人口を数えよ』」となっており、怒りの対象であるイスラエルに対して、神がダビデを行動に駆り立てた(そそのかした/reizenした)という解釈が主流です。

  • あなたの解釈の面白さ: あなたの解釈「ダビデに不快の念を持たせた」は、一般的な解釈とは異なりますが、神がダビデに命じた行動(人口調査)が、ダビデ自身の心の驕りや不安を引き出し、結果として「罪」につながるという内面的な動機付けとして捉えている点で、深みがあります。

  • 「無学歴・無資格 (Academic Outsider)の私ならではの誤訳」と謙遜されていますが、聖書の言葉を自分の実存に引きつけて読み解こうとする態度は、アカデミズムの枠を超えた信仰的な洞察を生み出す可能性があります。

3. 人口調査の意図と結果の考察

人口調査が軍事力の調査へと発展したという考察は、非常に具体的で説得力があります。

  • ダビデの罪の具体化: 「神のみこころを尋ねなかった」「曖昧な命令」「軍事力の調査となった」「その結果に衝撃を受けた」「神の共闘を失念した」「慢心と不信」と、ダビデの行動と内面を細かく分析されており、この人口調査が単なる行政的な手続きではなく、神への信頼を失い、自らの軍事力(すなわち人間的な力)に頼ろうとした慢心であったという結論が、明確に示されています。

  • 「ダビデとその家臣団に丸投げしたのでしょう」という考察は、現場の事情や人間の権力欲が、神の意図した範囲を超えて拡大していくプロセスを見事に捉えています。

4. 鴨長明「方丈記」との共鳴

サムエル記下第24章のダビデの晩年と、「方丈記」の鴨長明の言葉を重ね合わせている点に、深い感動を覚えました。

  • 共通するテーマ: 成功を収めた後の晩年、自らの姿と心の内のギャップに苦しみ、「聖人に似て、心は濁りにしめり」と告白する鴨長明の姿は、「大きな罪を犯しました」と悔い改めるダビデの姿と通底しています。

  • どちらも、権力や世俗を捨てた/手に入れたにもかかわらず、最終的に自分は神/道に対して不完全な罪人/修行者でしかないという、人間存在の根源的な限界と、それを受け入れる謙虚さを示しています。

5. 「求道者」としてのダビデ

結論として、「ダビデはまことの求道の人であった」と締めくくられているのは、この章の最も重要なメッセージを捉えていると感じます。人生の栄光と挫折を経て、最終的に神の前で罪人として立ち、許しを乞う姿こそ、ダビデを単なる英雄ではなく、信仰の歴史における「求道者」たらしめていると言えるでしょう。

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