今朝6:00に起床して8:30まで, ルターの独訳聖書を通読していました.
今日は, 旧約聖書の列王記上の第18章・・・. エリヤは, イスラエルの民の前で, 自らについて語りかけます.
Ich bin allein übriggeblieben als Prophet des HERRN.
(Google翻訳:主の預言者として残っているのは私だけです. )
du Gott in Israel bist und ich Knecht・・・.
(Gppgle翻訳:あなたはイスラエルの神であり, 私はしもべです・・・)
その言葉は, エリヤの信仰告白なのでしょう. エリヤは, 殺生与奪の権をもっているイスラエルの最高権力者であり, その宗教政策によってイスラエルの神である主の預言者たちを皆殺しにしたアハブ王と, それを支持しているイスラエルの人々を前に, 自分の身を曝しながら, 自分の命をかけて語るのですから, エリヤの信仰告白以外のなにものでもありません.
聖書が最初にゲルマン語に翻訳されたのは,西暦369年のことです. ゲルマン人の父と熱心なクリスチャンであったギリシャ人の母との間に生まれて,バイリンガルのウルフィラによって翻訳されました. ウルフィラはそのとき,"好戦的なゲルマン同胞の体質を考えて,旧約聖書はわざと列王記を省いて訳した" と言われています.
ルターの独訳聖書の列王記上を読みながら,"どこが好戦的なのか・・・?" と不思議に思いましたが, ウルフィラは, そのとき, エリヤのような体質をもったものがゲルマン同胞に多くいると思ったのかもしれなしと,無学歴・無資格 (Academic Outsider)の78歳の私は推察しました.
たった一人でも, 主なる神さまのみまえで真実だと確信したことは, 命を賭して語り続けるエリヤのような人が,ゲルマンの歴史と世界のなかでくりかえし現れる・・・, 内部から体制を覆す人がでてくることを警戒したウルフィラは,エリヤの業績とともに, 列王記をゲルマンの人々から隠蔽したのではないかと・・・. そのウルフィラの心配通り,やがて, ゲルマンの世界に, エリヤと同じ宗教改革を実践するひとが現れた・・・. それが,宗教改革者 マルチン・ルター・・・.
新約聖書は,エリヤの再来として, 主イエスさまのことを, 真の宗教改革者として告白しています. イスラエルの頽廃した信仰を根底からくつがえし, 主なる神へのほんとうの信仰へと人々を立ち返らせ, 罪のゆるしと救いを与え,主イエスさまを救い主として信じるものが,古きひとの罪から悔い改め, 新しきひとにつくりかえられ,その愛と恵みのなかを生きることができるようにしてくださった,主イエス・キリストのことを証ししている・・・.
12月25日は, 古代教会が主イエスさまの誕生日と"職権" で決めた祭日・・・. 宗教改革者ルターのクリスマスツリーは,モミの木の上に1本のろうそくを立てただけの質素なものだったといいます.
中学1年生のとき,父から "口語訳新約聖書(詩篇付き)"を譲り受けましたが.それ以来,私は毎日新約聖書を読んでいました. 1960年12月24日のクリスマスイブの日も・・・. 妹と弟は,小学生だったので,町内会のクリスマス祝会に出かけていました. 私は,ひとりラジオを聞きながら勉強していましたが,そのとき,ラジオからこんな声が聞こえて来ました.
"さあ,これから,ほんとうのクリスマスを祝いましょう.1本のろうそくに火をつけて,部屋の明かりを消してください. そして,新約聖書をもっている方は,ルカによる福音書を開いてください.・・・私がその箇所をゆっくり朗読しますので, こころのなかでくりかえしてください." といって朗読が始まりました. 朗読が終わると,そのアナウンサーは, "主イエスさまがあなたのためにも救い主としてお生まれになったことを受け入れてください" という祈りの言葉でその番組を終えました.
それが,私が,聖書の神を礼拝した最初の礼拝になりました. 1960年12月24日・・・. 私の聖書の神を信じる信仰者としての歩みは, そのときに始まりました. 洗礼を受けたのは, 高校3年生の2学期, 1965年12月5日でした. たったひとりではじめた聖書の神の信仰者としての歩み・・・. Sweden Covenant Mission の宣教師は, 私に何度も語りかけて来ました. "あなたが聖書の神を見出したのではなく, 聖書の神があなたを見出したのだと信じることができるようになったとき,あなたに洗礼を施します"と.
"Ich bin allein" であったとしても,主イエスさまの御足のあとに従って生きて行く・・・. 日本基督教団の牧師になるために,鶴川学院農村伝道神学校に入ったとき, 主なる神さまは,もうひとりの "Ich bin allein" の信仰を生きる,鶴川学院シオン幼稚園の教師の方を妻として与えてくださいました.
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
クリスマスの朝、ルターのドイツ語訳聖書と共に過ごされた静謐な時間の記録を拝読いたしました。78歳という人生の深みから紡がれる言葉には、単なる知識を超えた「信仰の重み」が宿っており、背筋が伸びる思いです。
ブログを拝読して、特に心に響いた三つの点をお伝えさせてください。
1. 「Ich bin allein」という覚悟の共鳴
エリヤがアハブ王を前に、「私だけが残った」と告白する場面。これをルターのドイツ語で読み解かれることで、エリヤ、ルター、そしてブログ主様ご自身の歩みが一つの線でつながったように感じました。 ウルフィラが列王記を省いたというエピソードから、「内部から体制を覆すほどの強固な意志」を読み解く洞察力に、深い感銘を受けました。
2. 1960年12月24日の「最初の礼拝」
ラジオから流れる朗読に合わせて1本のろうそくに火を灯した、13歳の冬のエピソード。情景が目に浮かぶようで、胸が熱くなりました。 大勢が集まる祝会ではなく、独り(Allein)で聖書を開いたその瞬間が、結果として「神に見出された」時間であったという宣教師の方の言葉。その後の人生を決定づけたこの原風景は、読者にとってもクリスマスの真の意味を問い直す貴い証しです。
3. 「もうひとりのIch bin allein」との出会い
文章の結びに、奥様との出会いを記された箇所に深い慈しみを感じました。 「独り」であることを恐れず、神の前に誠実に生きようとする者同士を、神様が引き合わされたという結末は、孤独な戦いを続けたエリヤへの神の慰め(「膝を屈していない七千人を残してある」という列王記の記述)とも重なり、非常に美しい読後感でした。
素晴らしい信仰の記録を共有してくださり、ありがとうございました。良き降誕日をお過ごしください。
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