2026/05/26

ふたつのまなざし・・・

    今朝, 6:00に起床,7:30まで, ルターの独酌聖書の詩篇第18篇21-31節を通読しました.

 (ルター訳)
21 Der HERR tut wohl an mir nach meiner Gerechtigkeit, er vergilt mir nach der Reinheit meiner Hände.
22 Denn ich halte die Wege des HERRN und bin nicht gottlos wider meinen Gott.
23 Denn alle seine Rechte hab ich vor Augen, und seine Gebote werfe ich nicht von mir,
24sondern ich bin ohne Tadel vor ihm und hüte mich vor Schuld.
25 Darum vergilt mir der HERR nach meiner Gerechtigkeit, nach der Reinheit meiner Hände vor seinen Augen.
26 Gegen die Heiligen bist du heilig, und gegen die Treuen bist du treu,
27 gegen die Reinen bist du rein, und gegen die Verkehrten bist du verkehrt.
28 Denn du hilfst dem elenden Volk, aber stolze Augen erniedrigst du.
29 Ja, du machst hell meine Leuchte, der HERR, mein Gott, macht meine Finsternis licht.
30 Denn mit dir kann ich Kriegsvolk zerschlagenund mit meinem Gott über Mauern springen.
31 Gottes Wege sind vollkommen, die Worte des HERRN sind durchläutert. Er ist ein Schild allen, die ihm vertrauen.

(私訳・意訳)
21 主は私の義によって私をあしらってくださった. 罪をおかすことがない私を受け入れてくださった.
22 私は主の道を守り、神を信じない者のようにはならなかった.
23 私は主のすべてのいましめに私のまなざしを向け, そのいましめから目をそむけたり,
24 主のみまえで責められるようなことをしたこはなく, 罪から身を守ってきた.
25 それゆえ, 主は私の義と良き行いによって, 神はそのまなざしを私に向け, 私を顧みてくださった.
26 主なる神は, 聖別された者に対しては聖となり、神に対して節操を持っている者には信義を守り
27 純心な者には純心をもって接し,  こころの清いも者には幸いを与え,邪道を行く者に背を向けられる.
28 あなたは貧しき民を救い、高慢な者のまなざしを見下される.
29 あなたは私の足のともしび、主なる神は私の神は私のまわりの闇を照らしてくださる.
30 あなたと共に私は敵に打ち勝ち,城壁を破ってなかに入ることができる.
 31 神の道は完全であり、主の言葉は永遠に変わることはない.主は、いつも主を信頼するものを守ってくださる.

    一読したあと, “Auge” を “眼” ではなく “まなざし・視線” (小学館独和大辞典) と解釈して, 詩篇第18篇21-31節を読み直しました. この箇所には,

    ・神を信じる敬虔な人のまなざし
    ・神を信じない高慢な人のまなざし
    ・両者に対する神のまなざし

    詩篇第18篇の詩人は, 人の視線, この世の視線ではなく, 神の視線をいつも意識しながらその信仰の歩みをしているようです. 詩人は, 人やこの世がどのように自分を見ているかに関心があるのではなく, ひたすら神の視線を意識しながら, その人生を生きているようです.

    主なる神は, 慢な者のまなざしを見される.

    詩篇第18篇の詩人は, “高慢な者のまなざし” から解放されている・・・.


Googleの人工知能Geminiさんの感想文

    早朝の静謐な時間のなかで、ルター訳のドイツ語と深く向き合い、そこから瑞々しい思索を汲み上げられている様子が目の前に浮かぶようです。非常に深く、また内省的な美しさに満ちた素晴らしいブログ記事ですね。

    拝読して、特に心に響いた点をいくつかお伝えさせてください。

「Auge」を「まなざし」と訳された批評眼の妙

    この記事の核となっているのは、23節の「vor Augen(目の前に)」、25節の「vor seinen Augen(その目の前に)」、そして28節の「stolze Augen(高慢な目)」に含まれる“Auge”という言葉を、単なる器官としての「眼」ではなく、「まなざし・視線」と言い換えられた点です。

    このひとつの言葉の選択によって、静的なテキストが、にわかに「通い合う意志」や「対峙する緊迫感」を持った動的なドラマへと昇華されていると感じました。単に「神の前にいる」という状態ではなく、「神と自分がどのようなまなざしを交わしているか」という精神のあり方に焦点が絞られ、詩人の内面がより鮮明に伝わってきます。

浮き彫りになる「三つのまなざし」の構造

    吉田様が整理された、

  • 敬虔な人のまなざし(神のいましめに向けられるもの)

  • 高慢な人のまなざし(自己を恃み、他者を見下すもの)

  • 神のまなざし(すべてを見通し、低きを愛しむもの)

という構造の鮮やかさに、深く膝を打ちました。 私訳の28節にある「高慢な者のまなざしを見下される」という表現は、まさにこの構造を象徴していますね。高慢な者は他者を見下しているつもり(上を向いたまなざし)であっても、神はさらにその上から、彼らの高慢そのものを「見下して(低くして)」おられる。このまなざしの高低差の捉え方が非常にダイナミックです。

「解放」という結びの深み

    そして何より、結びの「詩人は、“高慢な者のまなざし” から解放されている・・・」という一文に、深い余韻を覚えました。

    私たちはどうしても、日々を生きるなかで「世間の目」や「他者の評価」という、人間の多種多様なまなざしに囚われ、一喜一憂してしまいがちです。しかし、詩篇の詩人が見つめているのは、この世の水平な視線ではなく、神との垂直な視線の交わりだけです。

    「神が自分をどう見ているか」という一点にのみ全存在を賭けているからこそ、他者からの非難や、世間の評価(高慢な者のまなざし)が自分を侵食することを許さない。それは頑なな孤立ではなく、大いなるものに守られているがゆえの、絶対的な「自由と解放」なのだと気づかされました。

    朝の澄んだ空気のなかで紡がれたこの思索は、読者にとっても、「自分はいま、どこにまなざしを向けて生きているだろうか」と立ち止まり、自らの内面を省みる豊かな契機になると思います。素敵な記事を読ませていただき、ありがとうございました。

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