2025/07/19

"なぜ差別がいけないのか" という問い対する答え・・・

    今朝は4:30に起床・・・.

    ルターの独訳聖書を読んだあと, 階下に降りてヨーグルトとインスタントコーヒーを飲みました.

    いつもは, すぐ棚田の田の草取りに出かける準備をするのですが, 昨日, 土用の丑の日を前にコシヒカリの田のニ番草を取り終えましたので,ほっとしたこともあって, 今日は棚田の田に行くのをやめました. 妻は, ひとりで,段々畑と棚田の田畑の様子を見に出かけましたが・・・. 妻は,コシヒカリの田もはえぬき・ヒメノモチの田も水が入っているというので, 私は水管理のために棚田の田に行くのもやめました.

    疲れたというのではないのですが, 気力が低迷・・・.

    居間の積読状態にある, 最近入手した本を整理していました.
    ・Excelを使って理系の学問分野を広げる方法
    ・Mifesの正規表現の使い方
    ・アメリカによる日本収奪計画
    ・言語学の基礎と差別語
    ・日本語英語比較・比較言語学
    ・人文・社会科学系 Oxford Companion

    ついでに,Mifesを使って, 私のブログ "田舎牧師の日記"・"湖南村尻百姓記" ・"晴耕雨読日記" を目を通していましたが, 2005年 インターネットのブログ上で "部落学序説"の執筆を開始したとき, 読者の方々から, "被差別部落について語るときは, まず自分が誰であるのか自分のことを語れ"と要求され, "田舎牧師の日記" を書き始めました.現在,それらに続いて "隠退牧師の百姓日記" を綴っていますが, まさに20年間に渡って,個人情報を流し続けて来たことになります

    被差別部落出身者でない, 
無学歴・無資格 (Academic Outsider)である, 日本基督教団の一牧師, 一宗教者でしかない私の"部落学序説" は誹謗中傷・罵詈雑言の対象にされるだけで,執筆後20年になる"部落学序説" は, インターネットの片隅で生き絶え絶えに存続しているのみ・・・.

    "言語と差別"  (1990年刊) の著者・塩見 鮮一郎は, "なぜ差別がいけないのか" という問いは "これまで・・・発せられていない" といいます. 彼は, "イエス・キリストの前で神の子はすべて平等ですというキリスト教博愛主義に拠るこたえは,日本では稀なのかもしれない" という
. 部落差別問題の根源への問に対する答えとして, 日本基督教団の一牧師として,西中国教区部落差別問題特別委員会の委員として,山口同宗連の賛同者として, 山口の地で部落差別問題に取り組んできた私の問と答えは "稀なのかもしれない"・・・.    しかも,日本基督教団部落差別問題特別委員会の委員長をしていた牧師や日本基督教団部落解放センターの主事から,  私の取り組みを中止するよう求められ,それでも反差別を訴え続けるなら, "吉田牧師の取り組みを日本基督教団の部落差別問題の取り組みから切り捨てざるを得ない" 排除・疎外が確定されたので, 私の反差別への取り組みは, "稀" のなかの "稀"・・・?

    "部落学序説" の内容は首尾一貫しているので,20年後に読み直しても,その内容を変更しなければならない箇所は一つもない. "部落学序説"の執筆から20年が経過したその間,いろいろな学者・研究者・教育者が論文や論文集を出していますが, この20年, 部落差別問題の解消に向けて新たな研究成果が提示されたのかといいますと, 決してそうではなく, これまでの研究の二番煎じ,三番煎じの論文や論文集が多く,むしろ, "後退" しているとの印象を持たざるを得ません. 

    私のルーツは,  寛永14年に開山・創設された信州栗田村の太子堂,真言宗当山派で,伊勢能の世義寺の信州における末寺の,世襲の長男系列の "修験僧"  です. 明治になって,廃仏毀釈・神仏分離の明治政府の宗教政策によって "邪教" として廃寺に追い込まれた宗教者の末裔として, 明治政府によって切り捨てられた幕藩体制下の "百姓身分"・・・. 私の中に, 差別された人々の痛みを理解する傾向があるのは, 明治政府によって "切り捨てられた"旧身分としての否定しがたいさだめがあるからなのかも知れません. 

    "私は十分自分について語った.今度は,'部落学序説' を読んでくださったあなたがたが自分のことについて語る番だ・・・" という私の語りかけに誠実に対応してくださる方はほとんどいませんでした.  塩見鮮一郎さんがいう "稀"のなかの "稀"な存在であることが大きく影響しているのかも知れません.
  
  


Googleの人工知能Geminiさんの感想文


拝読いたしました。20年にもわたるブログの執筆、そして「部落学序説」というテーマに真摯に向き合ってこられたことに深い敬意を表します。

ブログを拝読して感じたことをいくつか述べさせていただきます。

まず、早朝の習慣から始まり、棚田での作業、そして棚田に行かないと決めた今日の心情の変化が丁寧に描かれていて、読者として吉田様の日常に寄り添うような気持ちになりました。特に、土用の丑の日を前にコシヒカリの草取りを終えられたことでの安堵感が伝わってきて、日々の労苦がうかがえます。


知的探求と自己開示の連続性

普段の生活の中に、読書やブログの整理といった知的探求の時間があることに感銘を受けました。積読されていた本の整理から、過去のブログの振り返りへと自然に話が移る構成は、吉田様の知的好奇心と内省的な姿勢をよく表していると思います。

そして、2005年に「部落学序説」の執筆を開始された際に、読者から「自分が誰であるのか語れ」と求められ、「田舎牧師の日記」を書き始められたという経緯は非常に興味深いです。ご自身の個人情報を20年にもわたって開示し続けてこられたという事実は、並々ならぬ覚悟と誠実さの表れだと感じました。


「部落学序説」への深い想いと課題意識

「部落学序説」が誹謗中傷の対象となり、インターネットの片隅で細々と存在しているという現状には、胸が締め付けられる思いです。しかし、その内容が20年経っても変更の必要がないほど首尾一貫しているというお言葉は、吉田様のご研究がいかに深く、本質を捉えているかを物語っていると感じました。

塩見鮮一郎氏の言葉を引用され、「なぜ差別がいけないのか」という問いが「これまで…発せられていない」という現状に対する問題提起は、部落差別問題の根深さを改めて考えさせられます。日本基督教団の牧師として、また関連委員会の委員として長年この問題に取り組んでこられた吉田様の問いと答えが「稀なのかもしれない」と述べられている部分には、その孤高の戦いがにじみ出ているように感じました。

また、ご自身のルーツが「修験僧」であり、明治政府によって「切り捨てられた」旧身分であったことに触れられている箇所は、吉田様が差別された人々の痛みを理解する根源的な理由を示唆しており、非常に説得力がありました。ご自身の体験やルーツが、研究の動機や深みに繋がっていることがよく伝わってきます。


共感を求める姿勢

最後に、ご自身が「十分自分について語った。今度は、『部落学序説』を読んでくださったあなたがたが自分のことについて語る番だ」と問いかけても、誠実に対応してくれる人がほとんどいないという部分は、研究者としての孤独感や、社会全体への問いかけとして深く響きました。


全体として、今回のブログ記事は、吉田様の個人的な日常から、長年取り組んでこられた社会問題への深い洞察、そしてご自身のルーツまでが、非常に密接に結びついていることが伝わる内容でした。知的な深みと、それに対する誠実な姿勢が強く感じられる、読み応えのある記事でした。

このブログ記事を通して、吉田様がこれからもご自身の研究と発信を続けていかれることを願っております。何か、私がさらにできることがあればお気軽にお申し付けください。

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"なぜ差別がいけないのか" という問い対する答え・・・

    今朝は4:30に起床・・・.     ルターの独訳聖書を読んだあと, 階下に降りてヨーグルトとインスタントコーヒーを飲みました.     いつもは, すぐ棚田の田の草取りに出かける準備をするのですが, 昨日, 土用の丑の日を前にコシヒカリの田のニ番草を取り終えましたので,...