今朝6:00に起床して, ルターの独訳聖書を読みました.
今は旧約聖書のサムエル記下を読んでいますが, 第一外国語の英語と違って,辞書なしで読むことはできません. 私にとって,第二外国語であるドイツ語の聖書を読むときは, Casioの電子辞書の独和辞典と紙の独和辞典をひきながらの通読になります.そのため,ひとつひとつの言葉に注意を向け,その言葉の背後にある意味を明らかにしながら読むことになります.
今朝は,ダビデが神の箱をエルされるに運び込む場面・・・.
その様子は,まるで日本の祭りそのもの・・・. 神の箱を神輿のように運び,笛や太鼓の音とともに踊りくるいながら歓声の中を練り歩くその姿は,日本の神社のまつりそっくり・・.
私は生まれたときからからだが弱く,他のこどもたちと一緒に野山や海辺に行って遊ぶことはできませんでした. 心臓に負担がきて,息切れして, 歩くことができなくなったからです. 鴻八幡宮の秋のだんじり祭のとき, 町内のこどもたちにだんじりの綱をひくときのはっぴが配られました. 青色のはっぴで背中には赤や黄色で "祭" の文字が染め抜かれていました. 祭りの当日,私は他の子どもたちと一緒にだんじりの綱を引いたのですが, すぐ心臓に負担がきて,息切れして,歩くことができなくなり, その列から外れてしまいました. そのとき以来,私は,鴻八幡宮のだんじりを引くことはありませんでした. "祭り" は,私にとっては無縁のものになりました.
今日の聖書の箇所は, それで終われば良かったのですが, そこに,ダビデの許婚であった,サウロの娘ミカルが出て来ます. ミカルの父サウロは, その娘ミカルをダビデではなくほかの家臣に嫁がせてしまいます. 権力者となったダビデは,その権力を用いて,そのミカルを夫から強奪し,自分の妻にしてしまいます. その夫だけでなく, その妻ミカルにとっても,受け入れがたいダビデによる仕打ちだったのでしょう. それでもミカルは,ダビデ王の妻のひとり,后としての自分を受け入れていたのでしょう.
ダビデが,神の箱をエルサレムに運び入れ,お祭りの騒ぎをしているのを見て,ミカルは,その悲惨な経験を思い出さざるを得なかったようです. ダビデは, その家臣たちの妻・娘・側妻たちと,ふんどしひとつで狂乱の踊りをしていたからです.
最初,その箇所を読んだとき, ミカルは他の女性たちに嫉妬しているのかと思ったのですが,読み奨めていくと, そうではないことがわかりました,ミカルは,ダビデに対して,ユダとイスラエルの王としてふさわしい振る舞いを求めていたのです. "王は王であれ!" ミカルはお祭り騒ぎで踊りくるうダビデを,ふしだらな男や女と同じ,放蕩に身を持ち崩した男や尻軽女と同じ振る舞いをしていると叱責するのです. その叱責の背後には, "ダビデが私を夫から引き離して妻にしたのは,ダビデの后にするためではなく, 単なる尻軽女として自分のものとして慰めものにしたのではないか・・・" という,ミカルのダビデに対する不信の念があると推察されます. 自分を叱責するミカルの言葉の中にその不信の念を見たダビデは,再び,生きている間, ミカルを抱くことはなかったようです. ダビデはミカルにこどもを産ませなかった・・・.
ダビデは,側妻だけでなく,その愛妻のこころも理解しようとはしなかったようです. ダビデの8人の妻のなかで. ダビデがほんとうに愛していたのは,策略をもってその夫であるウリアを死に至らしめ, その妻を強奪して自分の妻にしたベテシバだけ・・・. ダビデの女性遍歴の多様さに驚かされますが, 結局, ダビデはひとりの男として,ひとりの女しか愛することができなかった・・・. ベテシバ以外の他の7人の妻も10人の側妻もダビデの愛の対象ではなかった・・・. しかし, そのベテシバに対する愛も決してほめられるべきものではなかった.ベテシバを愛すると同時に,10人に側妻ともセックスしていたのですから・・・.
旧約聖書のサムエル記下は,ダビデ王とダビデ王朝の "恥部" だけでなく, この世のすべての王とその王朝の,権力者とその国の"恥部" を描き出しているようです.主なる神は,預言者サムエルを通して,イスラエルが部族連合から,ひとりの王が支配する王国に変わることに警告を発していたのですが,その警告が,徐々に現実化していく様子を, サムエル記上は物語っているようです. サムエル記下は,イスラエルの単なる政治史上の物語・歴史ではなく,イスラエルの統治・政治に対する告発の書・・・.
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