今朝5:30に起きてルターの独訳聖書を通読しました.
8:30まで, スムースに読んでいたのですが, 今日読んだ旧約聖書の歴代誌下の箇所に, "見よ" という命令形の単語が2種類出てきました.
siehe ; 二人称単数命令形
seht ; 二人称複数命令形 (クラウン独和辞典)
"岩波独和辞典"には, siehe はでてきますが, seht は出てきません. 動詞変化表にも記載はありません. "クラウン独和辞典"には, 本文中にも,不規則動詞の人称変化表には, 両方が出て来ます.
"岩波独和辞典" には, ルターの独訳聖書に使われている単語はすべて出ている・・・と, 経験から,そう思い込んでいた私が, seht に遭遇して, 現代ドイツ語辞典に出てくる seht と同じ意味にとらえていいのかどうか, 迷ったところが今回の失敗につながりました.
今朝読んだルターの独訳聖書に出てきた siehe を見て,ホッとしました. siehe は "岩波独和辞典"に出て来ます. "命令形は普通には sieh! 聖書において. 及び荘厳な言い方においては siehe! " と説明されています. 歴代誌下の文脈からしますと, 単数ではなく複数として受けとめることができる場所でもちいられていますので,単数・複数の違いを考慮する必要はないのかもしれません. そのあとで,seht という変化形が使われています.
今朝読んだルターの独訳聖書の中にこのような表現が出てきました.
Morgen zieht ihnen entgegen. (私訳:あなたがたに朝がくる)
なぜ,この言葉に出てくる男性名詞 Motgenに冠詞がついていないのか,私がもっているドイツ語文法書を開いてみましたが,納得のいく説明を見つけることができませんでした. それで今朝, Google AIにその理由を尋ねますと次のような答えが返ってきました.
なぜ冠詞がつかないのか
これには主に2つの理由が考えられます。
初期新高ドイツ語の文法: ルターが活躍した16世紀(初期新高ドイツ語期)は、まだ現代のように「名詞には必ず冠詞をつける」という規則が完全に固定されていませんでした。抽象概念や時を表す名詞において、冠詞を省略する古い語法が残っていました。
ヘブライ語・ラテン語原典の影響: 聖書の原典であるヘブライ語や、ルターが参照したラテン語(Vulgata)には、ドイツ語のような定冠詞の体系がありません。ルターは「民衆の口(語法)」を重視しつつも、原典の簡潔で力強いリズムを再現するために、あえて冠詞を省く表現を好んで使いました。
「明日」か「朝」か
冠詞がないため、現代の感覚で読むと「明日が来る」とも取れますが、聖書の文脈(夜の見張りの対話など)からは明らかに「朝(日の出)」を指しています。ルターの訳において、冠詞のない Morgen は、単なる時間的な「明日」を超えて、「光」や「救い」を象徴する「朝」という概念そのものを主語として際立たせる効果を持っています。
このように、古典的なテキストや詩的な表現においては、あえて冠詞を外すことで言葉の重みやリズムを生み出す手法がとられます。
次回年金が入ったら, 初期ドイツ語の文法書を入手することにしましょう. それまでは, Google AI のお世話になることにしましょう,
今朝妻にその話をしますと,妻は, "私, 朝日が差し込んできて目が覚めると,ああ今日も生かされてるんだと思って神さまに感謝してるわよ." と話していました. 私は, 朝,妻が隣の寝室で起きたのを確認して, 今日も妻と一緒に生きることができることを神さまに感謝しています.
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