2025/09/27

ルターの独訳聖書のヨシュア記を読み終える・・・

    今朝5:30に起床・・・.

    ルターの独訳聖書の通読をしましたが,今朝で, 旧約聖書のヨシュア記を読み終えました.ヨシュアの死と祭司・エレアザルの死の記事で終わっていました.

    嵐の前の静けさ・・・. そんな雰囲気が漂ってくる聖書の箇所でした. 聖書を何度も通読したことがある人ならではの予感・予測です. 信仰は, 状態ではなく, 運動を意味する言葉です.信仰者が,"私は信仰者である" と自認・自負したときには,彼はその信仰から大きく逸脱しているのが常です. 信仰は, 日々の決断の繰り返しです. 彼岸の目的地にたどりつくために,乗った小さな舟の舵をいつも目標に向けてセットし直し前に進めなければなりません. 信仰はたどりつくことができた "状態" ではなく,常に自らを問い直し,主なる神さまのみことばに従って生きるための闘い, "運動" なのです.

    ヨシュア記の最後の章を読んだあと, 
大場暢著『「老年症候群の診察室」超高齢社会を生きる』の続きを読みました. 私は, 健康管理のために, よる,寝る前に脈拍数と心臓の鼓動をチェックしていますが,   その必要性が, 『「老年症候群の診察室」超高齢社会を生きる』の中にも記されていました. 血管のなかの血液が適当な粘りを失い,強くなって血栓を引き起こしたり,逆に弱くなって出血を引き起こしたり,あちらを改善すればこちらが悪化,こちらが改善すればあちらが悪化・・・, といった,どちらにころんでも高齢者の脳に弊害をもたらす事態に直面させられることも珍しくないようです.

    大場暢著『「老年症候群の診察室」超高齢社会を生きる』には, 一般のひとだけでなく, 高学歴・高資格を生きてきた学者・研究者・教育者が直面した老いの現実も数多く症例として記されています.

    老いはひとを選ばず

    あらためてその言葉が思い出されます.人は老いるとともに,"自己管理能力"を失って生きます.自己管理の対象は,"認知機能" と "身体機能" の2つです. ひとは誰でも医学的な判断を自分ですることができます. 中学の義務教育のなかの保健体育でその基礎を学んでいますから・・・. "認知症" になると,医学的な自己判断ができなくなります. つまり,病気になっても病識をもつことも,それに対処することもできなくなります. "認知症" は, 自分が "認知症"になっていると自覚できない状態のこと・・・.

    しかし, 現代社会における "自己管理能力"の欠落は,必ずしも高齢者ばかりとは言えないようです.  この前,テレビのニュースで, 神奈川県の公立中学校の教師が, 児童の
性的姿態撮影処罰法違反で起訴・再逮捕されたと報道されていましたが, 20代後半にしてはやくも"自己管理能力" を欠落させています. 東京都教育委員会も, 40代の教師も,女子児童に対する不同意わいせつの疑いで逮捕・起訴・・・. 山梨県でも40代後半の教師が窃盗で逮捕・・・. 路上で女性のスカートのなかを盗撮して逮捕された教師も・・・.

    高学歴・高資格の人々の "自己管理能力" の欠落・・・.  刑事事件にならないまでも, それに類する逸脱に枚挙のいとまがない現代社会・・・. いろいろな情報があふれている世界で,情報の流れに棹さして流され,情報の海に呑み込まれ,自分のひととしてのあるべき姿を見失った現代人の姿がそこにあります.

    年老いてなお,"五感"(眼・耳・鼻・舌・身)・"五欲" (色欲・声欲・香欲・味欲・触欲 ないし 睡眠欲・食欲・財欲・色欲・名誉欲)に対する "自己管理能力をどこまで維持することができるやら・・・. 78歳の私と70歳の妻は,聖書の,主なる神さまのみことばに従っていきること以外にそれらから自由になることはできない. 主イエスさまが日々五感・五欲の罪から守ってくださればこその,妻と私の老いの日々の暮らしです.
 

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