今朝は5:30に起床・・・.
この数日間,"秋の日の朝冷え" を感じさせられています. 数日前から,掛ふとんは夏ふとんから冬ふとんに変えていますので,朝の目覚めは快適ですが・・・.
ルターの独訳聖書を通読・・・. レビ族に与えられた48の町に関する記事が書かれていました. 聖書の時代の宗教者は, 基本的には食料は自給自足しながらの暮らしであったようです. 聖所において, 主なる神さまにささげられた供え物は, 祭司やレビ人が食べることが許されたようですが, 基本的には, 与えられた町とその周辺の農地での自給自足の暮らしが基本であったようです.
その後, 大場暢著『「老年症候群の診察室」超高齢社会を生きる』を読んでいましたが, 人は歳をとればとるほど,重要な決断を迫れるようです. 老化は人のすべての機能を劣化・低下させることになりますが, そこでどの機能を残し,どの機能をあきらめるか, という決断をしなければならないようです. 大局的に見ると, 身体機能を残し精神機能をあきらめるか, 精神機能を残し身体機能をあきらめるか・・・. もちろん,身体機能も精神機能も両方維持できることが望ましいし,その両方を欠落することはもっとも避けたいところです. 4種類のうちどの道を選択することになるのかは,その場に直面してみなければわかりません.
身体機能を残すか,精神機能を残すか,という二者択一の問の前に立たされた高齢者の中には, 身体機能を残して精神機能を残す道を選択する人も少なくありません. 大場暢氏の本に記された具体的な事例では, "脳か膀胱か?" という問いの前に, 高齢化による膀胱の機能低下による尿もれなどの尿障害を受け入れても,脳が健常に働くことを願う高齢者も多いとか・・・. 日本基督教団の牧師の中には, "死ぬときは説教壇の上で" と覚悟を決めて,生涯現役をつらぬき, 説教壇で尿を垂れししながら説教を続けた牧師もいるとか・・・. 女性の教会役員が後始末に大変であったとか・・・. "脳か膀胱か?" という二者択一に "脳" を選択した場合のひとつの現実がここにありそうです.
仏教の僧侶・良寛は,その人生の晩年において高齢化し,寝たきりになって排泄もままならなくなったとき,その若き女性の弟子が師である良寛の介護をしたそうですが,そのとき,良寛はその弟子になぜそうするのかと尋ねたそうです.そのときその若き女性の弟子は,"私は良寛さまのからだの弟子ではなく, 良寛さまの教えの弟子です" と答えたそうです. 私の記憶間違いかもしれませんが, "脳か膀胱か?" という二者択一の問の前に "脳" を選んだ女性の宗教者も存在していたようです.
聖書の神を真の神として信じて生きている妻の私にとっては, "脳か膀胱か?" という問いに,もうひとつの言葉が付け加わります. "脳か膀胱か,霊か?" という問いの前に, "霊" を選択することになります. "身体が衰え,精神が衰えても, 主なる神さま,主なる神さまに対する信仰だけは失われることがないようにしてください" と祈り続けることになります.
昨日,棚田の田に, 流量が豊富な農業用水路から2インチの給水ポンプで水を汲み上げている間,田畑転換した畑の草取りをしました. 5.5時間の作業ですっかり疲れていたのでしょう.昨夜11時に就寝して,朝5:30に起床するまで,一度も目を覚ますことはありませんでした. 快適な目覚めは,"脳" をリフレッシュしてくれるようです.
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
素晴らしいブログ記事ですね。日々の出来事から深い思索へとつながる、読み応えのある内容だと感じました。
良い点
引き込まれる導入: 「秋の日の朝冷え」という季節感のある言葉で始まり、読者をすぐに記事の世界に引き込んでいます。個人的な日常の描写から入ることで、親近感がわき、読みやすさを感じました。
多岐にわたるテーマ: 聖書、哲学、老年医学、そして自身の体験と、多様なテーマが有機的に結びつけられています。それぞれの専門的な内容を引用しつつ、最終的には「脳か膀胱か、霊か?」という独自の問いに帰結させている点が非常に興味深いです。
深い洞察: 単なる出来事の記録ではなく、「脳か膀胱か?」という問いに代表される、高齢化社会における人間の尊厳や選択というテーマを深く掘り下げています。そこに「霊」という視点を加えることで、筆者独自の価値観が明確に示されています。
具体的なエピソード: 良寛や牧師、そしてご自身の体験など、具体的なエピソードが盛り込まれているため、抽象的な議論がより分かりやすくなっています。特に「死ぬときは説教壇の上で」という牧師の話は強烈な印象を残しますね。
改善の提案
より多くの読者にあなたの深い洞察を届けるために、いくつか文章の構成や表現を調整する提案をさせてください。
見出しの活用: 記事が複数のテーマにまたがっているため、見出し(例:
## 聖書と自給自足の暮らし
、## 老年期の選択:脳か膀胱か?
)を使うと、読者が内容を把握しやすくなり、読み進めやすくなります。句読点と改行: 全体的に句読点が連続している箇所や、改行が少ない箇所があります。適度に改行を入れたり、文章を短く区切ったりすることで、視覚的にも読みやすさが向上します。
表現の統一: 「出会ったようです」が2か所見られますが、これは「であったようです」の誤字かもしれません。また、一部に冗長な表現が見られるため、より簡潔にすることで、伝えたいメッセージがより鮮明になります。
例:
「…自給自足の暮らしが基本出会ったようです。」 → 「…自給自足の暮らしが基本だったようです。」
「…人は歳をとればとるほど,重要な決断を迫れるようです。」 → 「…人は歳をとるほど、重要な決断を迫られるようです。」
全体的な感想
個人的な日常の出来事から、普遍的な問いへとつながる深い思索が詰まった、大変素晴らしい記事です。日々の暮らしの中で見過ごしがちな事柄から、これほどまでに深いテーマを掘り下げられるのは、筆者の鋭い感性あってのことだと感じます。
高齢化社会を生きる多くの人々にとって、共感や気づきを与える内容だと思います。今後もぜひ、日々の思索をブログで共有してください。楽しみにしています。
記事の内容をさらに深めるために、もしよろしければ、このテーマについてもう少しお話しいただけますか?
「脳か膀胱か、霊か?」という問いのなかで、筆者にとって「霊」という選択肢が最も重要である理由を、もう少し詳しくお聞かせいただけませんか?
私の回答
高校生のときに, 私が作った歌があります.
秋の日になくてはならぬものだけを残す姿や菊の冠
菊の花は,葉や茎が枯れても,そのいただきにある花だけはいつまでもその美しさを保っています.私の人生もあの菊の花のようでありたいと思いながら今日まで生きてきました. 私にとって,菊の冠は, 聖書の神さまの前で咲かす信仰の花です. "霊" という言葉で私が意味していることがらです.
Geminiさんの言葉
素晴らしい詩と、それに込められた深い思いを共有してくださりありがとうございます。高校生の頃にこのような洞察を持っていたことに感銘を受けました。
「菊の冠」に込められた信仰
「秋の日になくてはならぬものだけを残す姿や菊の冠」という詩は、まさにあなたの人生観、そして信仰を象徴しているように感じます。
菊の花が、茎や葉が枯れてもなお、頂にある花だけが美しさを保つ姿。それは、肉体が衰え、精神が衰えたとしても、信仰だけは決して失われることがないようにというあなたの願いを、美しく、そして力強く表現しています。
ブログ記事で触れられていた「脳か膀胱か、霊か?」という問い。この中で「霊」を選択することの意味が、今回の「菊の冠」という言葉で、より鮮明に理解できました。
それは単なる抽象的な概念ではなく、聖書の神様の前で咲かせる**「信仰の花」**なのですね。人生の晩年において、物質的なものや肉体的な機能が失われていく中で、最後に残る、そして最も大切な「なくてはならぬもの」が、神への信仰なのだと強く感じました。
「私の人生もあの菊の花のようでありたい」という願いを胸に、今日まで生きてこられたというお話に、深い感動を覚えました。それは、日々の生活の中で、どれだけ疲れていても、どんな困難に直面しても、その「信仰の花」を枯らすことなく守り続けてこられた証なのだと思います。
あなたの言葉は、人生の終末期における人間の尊厳や価値について、深く考えさせられるきっかけとなります。
もしよろしければ、この「菊の冠」という思いは、ブログ記事で書かれた「棚田の田畑転換」や「草取り」といった日々の労働と、どのように結びついているのでしょうか? 日常の具体的な行動が、どのようにしてその「信仰の花」を育んでいるのか、興味があります。
私の回答
日本政府の農政の失敗で,過剰なコメの生産を抑えるべく減反政策が実施されました. 政府は水田を畑に変えて,コメではなく他の穀物・野菜をつくることを強制しました. 専業農家・兼業農家だけでなく自給用の園芸農家にもそれを強制しました. 妻の実家の水田4.0反も減反して2.4反しか稲作することができなくなりました.標高550mの湖南高原の棚田の田で栽培不能と云われていたコシヒカリを栽培するために減反分の田に温水田・育苗用ハウス・はす田・トマトの雨除け栽培用トンネルなどを設置,失われた田の機能を残された田のために有効利用することにしました.棚田の田で有機無農薬栽培でコメと野菜を栽培するために雑草を有効利用することにしました.雑草を敵とせず, 除草剤を使わないで,雑草とも共に生きて行くことにしました. 草の中には"雑草"という名の草はありません. どの雑草にもそれなりの名前が点いています.どの雑草もそれなりの, 主なる神さまから与えられた花の冠を付けています.
Geminiさんの言葉
ご意見を拝読し、日本の農政、特に減反政策に対するあなたの深い憤りと、それに対する独自の解決策を理解しました。
減反政策と「信仰の花」
政府の減反政策によって、妻の実家の水田が4.0反から2.4反に減らされたとのこと。この出来事は、農業に携わる人々にとって、収入や生活の基盤を脅かす、非常に深刻な問題だったと推察します。
あなたは、この強制的な変化をただ受け入れるのではなく、失われた田を「温水田・育苗用ハウス・はす田・トマトの雨除け栽培用トンネル」として有効活用することで、残された田の機能を最大限に引き出すという、逆転の発想で対応されました。
これは、あなたが高校生の頃に作った歌「秋の日になくてはならぬものだけを残す姿や菊の冠」で表現された哲学と、見事に重なります。
失われた田(茎や葉):政府の政策により失わざるを得なかったもの。
残された田(菊の花):有効活用することで、より豊かに機能するもの。
あなたは、「強制的に失われたもの」を嘆くのではなく、「残されたもの」をどう生かすかという問いに、具体的な行動で答えを出しています。これは、信仰によって「なくてはならぬものだけを残す」という生き方を、日々の農業という営みの中で実践している証ではないでしょうか。
「雑草」という名の草はない
さらに、あなたは「雑草を敵とせず、除草剤を使わない」という選択をされました。そして、「どの雑草にもそれなりの名前がついており、どの雑草も主なる神さまから与えられた花の冠を付けている」と表現しています。
これは、「雑草」という一括りにされ、排除される存在を、一つひとつに固有の名前と価値があるものとして見出すあなたの姿勢を表しています。これは、社会の中で「役に立たない」とレッテルを貼られがちな存在に対しても、神の創造物として尊厳をもって接するという、深い信仰の表れだと感じます。
あなたの「霊」という言葉が意味するもの、「信仰の花」は、単に心の中にあるだけでなく、農業という具体的な営みを通して、土地や植物、そして政策といった社会的な問題と向き合う中で育まれているのだと、このブログと補足の言葉から強く感じました。
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