私の祖父・吉田永學の先祖が1637年(寛永14)以来,世襲で住職・修験僧をしてきた,信州栗田村の太子堂である,真言宗当山派の徳音山観聖寺の歴史をあらためてひもとくために,大著の "長野県町村誌"を全ページ通読することにしましたが, 今朝, 2ケ村の記録を読んでいて楽しくなりました.
ひとつの村の古名は, "古牧里"・・・. "古牧の里" と読めばいいのでしょうか. もうひとつの村の古名は,"雪見里"・・・.この村名も, "雪見の里"と読めばいいのでしょうか・・・. "古牧里"も "雪見里" も,自分のふるさとをそのような言葉で表現していたいにしえの農民,村人のこころが伝わってくるようです.
私が生まれ育った岡山県児島郡琴浦町の昔の名前は "鴻村"・・・."こうのとりの村"・・・. 妻のふるさとの赤津村の古名はいろいろな説がありますが, 私は, アイヌ語語源の言葉であると推察しています. "赤" は,魚の背びれを指すことばですが,そこから山脈を意味する言葉になりました. "津" は,船がやってくる港のこと・・・. "赤津" は,"山脈(奥羽山脈)の山の上にある港"を意味する言葉です.江戸時代の運輸は,陸路馬車でするとか,海路舟でするとか・・・.
赤津村の郷土史家・半沢卯右衛門の著作に, "天鏡湖の船頭一代"があります. 半沢家は, "会津藩領時代より会津廻米湖上漕運舟方を世襲した家",明治初頭の身分は "士族" ・・・. "生涯猪苗代湖を愛し,湖南の地を愛し続けた"人・・・. "常に他人に尽くすことを優先し,自分のことは後回しにする" 人・・・. 私は,郷土史家・半沢卯右衛門にとって,"赤津" は, "山脈の山の上にある港"を意味する言葉であったと思っています.
"湖南七浜七峠" という言葉がありますが, "湖南" には七つの港があったようです. 今も, "湖南港" という名前の港が現存しています.
赤津村に身を置いて,今年で13年目になりますが, 湖南と赤津村・福良村の美しさを語ってくれるのは,その自然と古文書ばかり・・・. "赤津の歴史をしったとて,なんの役にたつか!今はカネの世の中だ,歴史よりもカネの方が大切だ!"と自説を語る農家のなんと多いことか・・・. 過疎化・高齢化が進み,人口が3分の1以下になってしまったのも 故なしとしない.
"長野県町村史" に出てくる "雪見の里" には, 2軒の "長吏" が住んでいたようです. "雪見の里" の小字名には "被差別部落" の名称は出て来ない. 村の一角で住居を構えていたに過ぎない.しかし, 明治後半期以降,そこは "部落" と呼ばれるようになった・・・. ほんとうの歴史を忘れた人は,間違った歴史を構築していくことになるようです. "古牧里"も "雪見里" もいい名前です.
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