2025/09/24

先祖が住職・修験僧をしていた信州栗田村の観聖寺の歴史研究を再開・・・

    今朝, 重い腰を上げて, 先祖が,代々,世襲で住職・修験僧をしていた信州栗田村の真言宗観聖寺の歴史研究を再開しました.

    観聖寺は, 真言宗当山派の触頭をしていた, 伊勢神宮の神宮寺であった世義寺の信州における末寺です. そのため, 長野県立図書館や長野市立公文書舘の史資料のなかに,観聖寺に関する記録が出て来ます. しかし,  会津地方から北信濃にドライブして,先祖の歴史を調べるのは,時間的・身体的・経済的にほとんど不可能です.

    それで, インターネットの日本の古本屋経由で観聖寺に関する古書を集める事になりましたが,その中に,"長野県町村誌"がありますが, これまで,必要に応じて該当箇所を読むだけで,全篇を読むことはありませんでした. 何しろ,北信篇・東信篇・南信篇の3冊,総3,722ページ の大著ですから,全ページに目を通すことは最初から断念していました.

    しかし, 今朝, やっと, 決心して, "長野県町村誌" を全篇読むことにしました. 真言宗当山派の触頭をしていた観聖寺は,その配下に20カ寺院を抱えていました. そして,明治政府によって修験道廃止が宣告され,廃寺に追い込まれましたが, 観聖寺の先祖の住職・修験僧は,触頭として, 配下の20カ寺院に対してどのように関わっていったのか・・・? 長野県庁から, "元修験取締役" の勤めを強要されたようです. "元" がどこにかかるのか, "修験" にかかるのか,"取締役"にかかるのか, 手元にある史資料だけでは判然としません.観聖寺は, "真言宗当山派"の修験僧なのに, なぜか, "天台宗本山派" の修験僧を抱え込むことになり,当時の観聖寺の先祖は, その悲鳴を上げています. それから推察するに, 観聖寺の最後の修験僧である先祖は, 長野県庁から"元修験" の "取締役" をさせられていたと解釈するのが妥当であるようです. しかし,   "元修験取締役" とはなになのか,まだ歴史的に裏付けをしていません

    明治政府は,"明治年代の初, 政府は各府県に命じ町村史を編集せしむ"とあります. 日本全国の明治初期の町村が一定の書式のもとに回答したものですが,  "長野県町村誌" は, 明治11年から15~16年頃までに書き上げられた長野県下の町村の原稿を綴ったもの"・・・. 

    観聖寺の歴史を調べるには, 触頭であった観聖寺の配下の20カ寺院の歴史をも調べなければなりません. それだけでなく,信州における他の真言宗当山派の触頭との交流もありますので,観聖寺の歴史を調べるには, もしかしたら,信州におけるすべての真言宗当山派の修験寺院の歴史を調べなければならないのかもしれません.無学歴・無資格 (Academic Outsider) で歴史研究の門外漢である私のよくなしうることではありません. その配下の20カ寺院が,修験道廃止によって,  明治11年から15~16年頃までにどのような消長を経験をすることになったのか, 歴史記録にその存在を留められたのか, それとも抹消されたのか・・・.

    それを知るための最も安易な史資料として, "長野県町村誌" を集めたのですが, 読み進めるにつれて,江戸時代の信州の村々がどのように運営されていたのか,多方面に渡って知ることができる史資料であることが分かりました.近世幕藩体制下の "村" と 明治初年代の "村" はあくまで "村"であって,"部落" という言葉は使われていません.     近世幕藩体制下の "村" と 明治初年代の "村" を "部落" と読み替えるのは時代錯誤です.

     "長野県町村誌" を読むことで, 私の先祖の観聖寺とその修験道の歴史だけでなく, 忘れ去られた,そして,左翼主義の思想や運動によって書き直された "被差別部落史"とは異なる,歴史上の真実な "穢多" 役・"非人"役 , その村の姿をもあきらかにすることができそうです.  



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