夜、『観聖寺文書』のひとつについて<語釈>作業をしました。
近世文書の崩し字を、一字一字判読して活字に置き換え、その単語の意味を、古文書解読辞典や古語辞典で確かめ、その文書を現代語訳にするだけでは、古文書をほんとうに解釈したことにはなりません。
その古文書の歴史的背景、執筆されたときの状況・・・などを視野に入れながら、その古文書の歴史的価値を明らかにすることによって、解釈は、ほんとうの解釈になってきます。
夜、<語釈>作業をしていた古文書は、<月日>の記載はありますが、<年>の記載はありません。しかし、<語釈>をしていくなかで、その古文書が書かれた年代を想定させる表現に遭遇し、他の『観聖寺文書』から、その執筆<年>を特定することができました。
たった1枚の古文書でも、文献解釈学の手法を使って解釈していきますと、筆者の先祖、信州栗田村の真言宗観聖寺の住職・修験僧の生き様が明らかになってきます。日本基督教団の隠退牧師である筆者、真言宗当山派の先祖の歴史を調べても、筆者の生き方を変えることにはなりませんが、先祖に対する尊敬の念を抱くようになります。同じ宗教者として、それぞれ信じていることに従って、自らを律し、生涯をかけて真実に生きようとしてきたのだと・・・。先祖の歴史に対する不連続の連続・・・。今回もそれを確認させられる古文書でした。
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