夜、『観聖寺文書』を通読しながら、真言宗当山派の信州水内郡栗田村の触頭・観聖寺配下の触下の寺院に関する記述を拾い出しました。
筆者が読むことを許された古文書の範囲では、文政7年(1824)のときは、10か院・・・。幕末慶應2年には、その数20か院・・・。寺院名がわかっているのは、そのうち12か院・・・。
『長野県町村誌』で12か院を確認してみましたが、なんと、12か院ともその記載なし・・・。『長野県町村誌』に、筆者の祖父の先祖、信州栗田村の真言宗観聖寺が記載されているのは、観聖寺が、寛永14年(1637)に開山され、幕末まで新儀真言宗修験伊勢国世義寺の末寺であったため・・・だけではなく、聖徳太子を本尊とする栗田村の太子堂でもあったからでしょう。
それにしても、修験寺院は、徹底的に長野県の歴史から、日本の歴史からその存在を否定され、記録からも抹消されたようです。筆者が、観聖寺の長男系列の直系の末裔として、『観聖寺文書』を読むことができるのは、また、長野市立古文書館や長野県立図書館・長野県立歴史館で、観聖寺関連の文献を閲覧できるのは、もしかしたら、例外中の例外だったのかもしれません。
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