日本基督教団の隠退牧師である私は, 毎日聖書通読をするのが常・・・.
最近は, "ギリシャ語新約聖書" を読んでいますが, ギリシャ語原典であれ, 英訳聖書であれ, 邦訳聖書であれ, 聖書の読み方は同じ・・・. 聖書は, "一言一句神のことば・・・" と信じれてきましたが, まわりにクリスチャンが誰もいなかったにもかかわらず, 中学1年生のときか読み始めた聖書は, 私の精神形成に大きな影響をもたらしました.
毎朝1-2時間, ギリシャ語新約聖書を通読していますが, 読むとき, 5色のマーカーペンを使ってそのことばを色分けします. 聖書は, "信仰" のことばです. 聖書の神の "信仰者" として "信仰" のことばに生きることをもとめられているのですが, 聖書には "神のことば" に対する信仰" の言葉だけでなく,
非信仰の言葉
未信仰の言葉
不信仰の言葉
反信仰の言葉
無信仰の言葉
があります. 聖書は, それらの言葉によって生きるのではなく "信仰" の言葉によって生きることを求めてきます. "信仰" の言葉に生きるためには, 常に, 非信仰・未信仰・不信仰・反信仰・無信仰の言葉を退け, 忌避し, 聖書の神のことばにたいして, "信仰" の言葉に生かされ続ける必要があります. ギリシャ語聖書を読むとき,
神の啓示のことば
神の人間に対する戒めのことば
信仰の言葉
非信仰の言葉
不信仰・反信仰・無信仰の言葉
をマーカーで色分けしながら意図的・分析的に読み進めて行きます.聖書解釈における, 聖書のことばを生きるときにともなう "錯誤行為" をすること(非信仰・未信仰・不信仰・反信仰・無信仰の言葉を信仰の言葉としてうけとめたり, 信仰の言葉を非信仰・未信仰・不信仰・反信仰・無信仰の言葉として受け止めたりすること) を排除するためです. それらが混同されたとき, "信仰" の言葉は, "信仰" の言葉ではなくなっていまいます.
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