このところ、郡山地方史研究会の古文書講習会に参加することをやめて、筆者の祖父・吉田永學の先祖の、信州栗田村の真言宗・観聖寺の住職・修験僧の古文書を通読していますが、筆者の曽祖父・吉田向學の父・祖父・曽祖父・高祖父の直筆の古文書から彼らの<民間宗教者>としての生き方を調べています。
調べれば調べるほど、清貧の民間宗教者・・・。信州における当山派の修験僧の<触頭>としての職務記録を通じて、観聖寺だけでなく、<触下>の20カ院の修験僧に関する記録も書き留められています。時間的・経済的ゆとりがあれば、先祖の観聖寺とその修験僧・住職がどのような存在であったのか、よりくわしく調べることができる可能性があります。20カ院の末裔の方々も、それなりに先祖の古文書を保管しておられるでしょうから・・・。それに、観聖寺が末寺をととめていた京都醍醐寺や江戸鳳閣寺、伊勢世義寺関連の古文書にも、観聖寺関連の記録が残っているでしょうから・・・。古文書は、古文書が読まれるとき、みずからを開示して、さらなる古文書の存在を示唆してくれるのが常・・・。
真言宗観聖寺の住職・修験僧は、栗田村太子堂の住職、当山派の修験僧の本業だけでなく、普化宗の寺院で修業して尺八の免状をとったり、京都六角堂の寺から華道の永代免許をとって、観聖寺敷地内の和室で指導して、副業にも精を出していたようです。そして、寺社の農地を借りて、自給用に米を栽培したり・・・。その活動は、京都・奈良・和歌山から東京・神奈川・静岡・茨城・群馬など広範囲に及んでいました。なにしろ、醍醐寺は京都に、鳳閣寺は江戸にあったのですから、当山派触頭として、その活動範囲は広範に及んでいたようです。
筆者の先祖は、徳川幕府によるキリシタン禁制下における<民間宗教者>、近現代の基督教会の<牧師>と同等の生き方をしていた、まじめな<宗教者>であったようです。明治政府により、<修験道廃止令>が出されますが、明治政府による基督教の黙認と引き換えに、明治政府によって実施された宗教政策であるようです。日本基督教団の隠退牧師である筆者、先祖の真言宗当山派の修験僧・僧侶とは、まったくの<不連続>ですが、清貧をもって職務を遂行する同じ民間宗教者としては<連続>しています。
2023/02/14
古文書で、吉田向學の高祖父までの先祖を調べる・・・
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