2022/03/01

先祖の歴史を調べるために集めた史資料は200冊・・・

修理した本箱は、筆者が、先祖の歴史を調べるために集めた史資料を並べることにしました。その史資料は、全部で約200冊・・・。

その中で、筆者の祖父・吉田永學の先祖、信州栗田村の真言宗・観聖寺やその住職・修験僧の名前が出てくるのは10冊未満です。観聖寺は、聖徳太子を本尊とまつる栗田村太子堂でもあり、真言宗当山派の、伊勢神宮の神宮寺でもあった世義寺の信州における末寺のひとつです。江戸幕府の直轄地でもあった栗田村の観聖寺は、紀伊半島の修験だけでなく関東の修験とのつながりも多く、真言宗観聖寺の跡地に住み、その宗教遺産を継承しておられる吉田さんに見せていただいた<宗教的遺物>は、紀伊半島と関東の両方のつながりを証しするものが少なくありません。筆者の祖父・吉田永學の高祖父が、観聖寺を改築するときに寄進のあった寺は紀伊半島から関東の広範な寺院に及びます。そのため、真言宗・観聖寺の住職・修験僧が生きた歴史の足跡を調べるには、広範な調査が必要になります。無学歴・無資格、歴史的研究の門外漢である筆者にとって、真言宗・観聖寺に関する眠った史資料を掘り起こすことは、ほとんど不可能です。それで、筆者は、演繹的に、筆者の先祖の歴史を明らかにしようと思って、間接的な史資料を数多く集めました。

それで分かったことですが、長野県の修験の研究者・学者が描く修験の姿と、信州栗田村の真言宗観聖寺の住職・修験の語る姿との間に、かなりギャップがあるのに気づきました。1637(寛永14)年に開山された真言宗観聖寺の住職・修験僧が世襲で1878(明治11)年、明治政府の宗教政策、それに迎合した真言宗によっては廃寺へと追い込まれるまで、先祖代々真言宗観聖寺の住職・修験僧を続けてきたわけですから、先祖は、生粋の民間宗教者・・・。キリシタン禁制下にあって、修験寺院は、キリスト教の教会の役割を担っていたような気がします。時間と健康があたえられたら、筆者、調べたことを1冊の本にして書きとどめたい・・・。


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