昨夜遅くまで、筆者の曾祖父・吉田向学直筆の古文書(『観聖寺文書』のひとつ)を読んでいました。
吉田向学は、幕末から明治にかけて生きていましたが、幕藩体制下から明治天皇制下へ時代が大きく変わるなかで、どのように生きていたのか、古文書でたどることができます。筆者が読むことを許された『観聖寺文書』は、その一部でしかありませんので、手元にある古文書の写しだけでは、すべてを知ることはできません。しかし、全部を読むことが許されたからといっても、筆者の古文書読解力で、曾祖父吉田向学のすべてを知ることができるわけではありません。読むことが許された範囲で、古文書を読んで分析、その古文書の背後にある時代、状況、その中で、曾祖父吉田向学がどのように生きてきたのか、推察する必要があります。
吉田向学は、幕末期においては、真言宗当山派の信州における触れ頭のひとりでしたが、その配下には<20か院>があったといいます。明治初期においては、修験道廃止令が出されたあと、その<20か院>に、<台宗>(天台宗本山派)<60か院>が<編入>されてきたといいます。筆者の疑問は、<なんで・・・?> 信州の本山派の有名寺院の古記録には、幕末から明治にかけての記録が欠落しています(<史資料として公開されていない>という意味)。吉田向学は、<台言>(元天台宗本山派と真言宗当山派)の<交流>に腐心したようですが、そのことを記しているのは、真言宗当山派の<取締役>に差し出した嘆願書の下書き・・・。正式の文書は、その<取締役>の寺院に保管されている可能性があります。もちろん、その寺院の名前もわかっています。
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