2022/08/28

曾祖父・吉田向學の名前は・・・

筆者の戸籍上の曾祖父は、幕末から明治にかけて生き抜いたひとです。明治新戸籍が作られる前は、筆者の先祖は、

1.幼名
2.元服したあとの名前
3.修験僧になったときの名前(戒名)
4.隠居以降の名前(俗名)

と、いくつもの名前をもっています。明治新戸籍がつくられるとき、日本国民は、1人1氏名を強制されることになります。そのとき、筆者の曾祖父は、1.~4.のどの名前を戸籍上の名前として申請したのかといいますと、3.・・・。しかし、明治政府の宗教政策によって、修験道廃止令が出され、本山の伊勢神宮の世義寺と共に末寺の信州栗田村の真言宗観聖寺も廃寺に追い込まれます。明治政府の宗教政策によって修験僧は<平民>(壬申戸籍の記載)に・・・。しかし、曾祖父は、修験僧でなくなったあと、戸籍上の3.の名前ではなく、修験僧を隠退したときの4.の名前を通称として用いたようです。筆者の祖父・吉田向學は、戸籍上の名前ではなく通名・・・。その曾祖父、1637年(寛永14)以来、世襲されてきた観聖寺の修験僧・住職の家系を実質的に継承できなくなったことを前提に、自分の子どもの名前を、4.隠居以降の名前(俗名)として、吉田永學にしたと思われます。向學という名前は、筆者の父からたびたび聞かされていた曾祖父の名前ですが、古文書の中には、先祖の名前は<学>がつくと・・・。2013年4月1日に、日本基督教団の隠退牧師になり、妻のふるさと・湖南に帰郷・帰農する前、インターネットの日本の古本屋経由で入手した『近世栗田村古文書集成』の中に、<向隠居>や<?学>という表記をみつけ、それが、父から聞かされていた先祖の<?学>と一致・・・、筆者が、曾祖父・吉田向學にたどりついた瞬間でした。長野市の吉田向学の戸籍の中に、祖父・吉田永學や、筆者の父と姉の名前がありました。長野市公文書館の主任研究員の方は、<おとうさんとおねえさんの本籍がこの長野にあったのなら、あなたも間違いなく長野のひとです>と話しておられました。古文書には、栗田村には、長年、長吏・番太の類は存在していないとの記録もあり、筆者は、穢多・非人の家系ではないことが100%古文書・戸籍によって明らかになりましたが、それでもなお、『部落学』執筆にこだわっているのは、被差別部落の人々が、差別思想である<賤民史観>から解放されて、彼らの先祖のほんとうの歴史を取り戻し、先祖の生き方に対する尊敬の念を取り戻し、差別をはねかえして生きていくことができるようになれば、という願いと祈りをこめて・・・。日本基督教団西中国教区の山口のちいさな教会の牧師をしていた30年間、かかわった山口の被差別部落の人々との出会いをなかったものとして記憶から消去することはできません。先祖の歴史を捨てることなく生き抜いている山口の被差別部落の古老の方々に対する尊敬の思いを込めて・・・。

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