2022/06/02

筆者の人生の中で一番充実していた時期は・・・

筆者の人生の中で一番充実していた時期は・・・

この前、娘家族が遊びにやってきたとき、孫の向学ちゃんが誰に似ているのか、という話になりました。

娘:向学は、とてもおしゃべり・・・。これは、おとうさんに似てるのよね。私も夫もおしゃべりではないから・・・。
筆者:わたしは、こどものころ、無口っていわれていたけれど・・・。
娘:絶対にそんなことはない! おとうさんはおしゃべりよ!

筆者が無口であるかそうでないのか・・・。人生は、いろいろ変化していくものですから、こどものころ無口でも、小・中・高と無口で通っていても、青年期、壮年期、老年期と人生が変化していく中で、無口がおしゃべりに変わる可能性はたぶんにあります。筆者が無口からおしゃべりに変わったのは、それまで勤めていた、某医学研究所付属病院の臨床病理検査の仕事をやめて、ドイツのベアリングや縫製機器の輸入専門商社である株式会社ジューキに就職したとき・・・。職業安定所で、<難しい試験のある会社、給与の高い会社>を紹介してもらいました。職業安定所の担当者の方は、<これまで何人も紹介しているけれど、みんな不採用になっています。そこでも受けてみますか?>といわれ、すぐその会社に出向きました。そのとき、たまたま本社から出張してきていた専務さんが、FAXで人事部から入社試験問題を送ってもらい、筆者、応接室で専務さんの目の前でその試験問題を解答することになりました。その問題というのが、英語の文書・・・。専務さんは、<辞書をつかってもいいので訳してください>と言われましたが、筆者は辞書なしで訳しました。すると、専務さん、本社の人事部に電話して、筆者を即採用してくださいました。<高校を卒業したあと大阪府の職員をしたり病院で臨床病理の検査をしてきた実績を評価して、高校卒業と同時にこの会社に入ってきたものとして年齢給をさしあげますから、頑張ってください>と、採用がきまりました。

3か月間、業務をおぼえたあと、筆者は、Missionary Salesman の仕事に従事することになりました。最初の仕事は、代理店との顔つなぎのため、集金・・・。しかし、学校や病院に勤務していた筆者は、無口を絵にかいたような存在・・・。最初、倉敷市の Kosen ミシンという大きな代理店の回収にでかけたとき、1日、椅子にすわってまっていても、集金させてもらえませんでした。営業所に戻って、所長にその話をすると、<なにもしないで、何も話さないで、椅子に座ってたのか? それじゃいつまでたっても集金はできない。明日、会社のシャッターが開くのを待って中に入り、丁稚奉公をするつもりで手伝って来い!>と指導され、次の朝、その会社のシャッターが開くと同時に、社長に、<何のお手伝いしましょうか?>と話しかけ、ひとつのことが片付くと、<次は何をしましょうか?>と、一日、社長の指示に従っていろいろなことをしました。そして、5時前、社長は、<今日は、よくやってくれた。助かった。小切手を書く時間ができたから、集金させてあげよう。>といって、生まれてはじめてみる額面500万円の小切手をいただきました。そして、<はい、これ、おみやげ・・・>といって、注文書まで・・・。そのとき、社長さん、<私は忙しいんだ。新聞を読むひまがない。これから、うちの会社にくるときは、その日の新聞を読んで、その内容を簡潔に教えてくれ。文化欄や社会欄ではなく、経済欄や政治欄、株価の情報もきちんと読んで、間違えないように正確に教えてほしい>といわれて、それから筆者、新聞の読み方と、読んだことをほかのひとに伝える話し方がすっかり変わってしましました。

無口な筆者が、雄弁な、Missionary Salesman に変身してしまったのです。その年、株式会社ジューキは、ドイツのデュルコップ社に加えてイタリアのリモルディ社の縫製機器を取り扱うようになりました。そして、筆者は、そのリモルディ担当に・・・。筆者に与えられた課題は、半年間、中四国の商工会議所をまわって、リモルディ社の縫製機器を購入してくれそうな会社のリストとつくると同時に、1台でいいから、リモルディ社の縫製機器の注文をとってくること・・・。そのために、本社から送られてきた資料は、リモルディ社の英文のカタログや説明書、パンフレット、30cmの高さの英文の資料・・・。筆者、それを読んで、売れそうな縫製機器のパンフレットをつくり、それをもって代理店をまわり、リモルディ社の製品を紹介してまわりました。

リモルディ社の縫製機器は、ニット製品を縫うミシン、女性の下着やファンデーションを縫うミシン、スポーツウエアを縫うミシンが多く、筆者は、グンゼ、レナウン、ワコール、アンネなどの工場をまわって、リモルディ社の縫製機器を宣伝してまわる Missionary Salesman の職務を遂行することになりました。ある女性の下着を製造している会社を訪ねたとき、応接室に通されましたが、その応接室、出入り口のドアを除いて、その会社が製造する女性のいろとりどりの下着が並べられていました。筆者、突然の異空間に迷い込んでとまどっていますと、その工場長、<なんだ? 顔をまっかにして。うちに営業にきて、顔を真っ赤にした営業マンはあんたがはじめてだ。今度くるときは、女性のパンティを見ても顔を赤くしないように。>といって、筆者に縫い見本をもってくるように言われました。その縫い見本は、女性のパンティの縫い見本・・・。

筆者の人生の中で、一番収入が多かったのは、株式会社ジューキで Missionary Salesman をしていたとき・・・。日本基督教団の牧師になって30年間、ほんとうの牧師として宣教していましたが、その謝儀は、そのときの半分を超えることはありませんでした。中四国のアパレル産業の社長や工場長、工業用ミシンの販売店の社長や技術者の方々とであって、いろいろな人生経験を積み重ねていきました。

筆者が担当した代理店の社長は、釣り好きの社長ばかり・・・。支店長は、<吉田くんが釣り好きの代理店を担当してくれてよかった>と話していましたが、漁船をチャーターして沖でメバルをつったり、ママカリをつったり、タイをつったりするのは楽しかったのですが、釣り好きの社長というのは、春夏秋冬一日中釣りをするんですよね。真冬にも・・・。潮のいいときに電話がかかってきますので、代理店に行きますと、くるまで、メバルがつれる波止場へ・・・。焚火をするとメバルが近寄ってこないとかで、寒風吹きすさぶ波止場に社長とふたりで釣り糸をたれて次から次へとメバルをつりあげていきます。そして、そらが明るくなったころ、代理店に戻りますと、奥様がつったメバルをすぐ料理してくださり、それを食べると、2階の客室で睡眠をとり、昼ころ目がさめると、小切手と注文書、そしておみやげとして、釣ったメバルをクーラーに入れて渡してくれました。寒風吹きすさむ岸壁で、一升瓶の清酒を飲んで暖をとりながら・・・。

輸入機器の専門商社、株式会社ジューキにつとめていたとき、無口の筆者が雄弁な筆者に変革させられたのです。Missionary Salesman から 日本基督教団の Missionary になってからも、筆者、再び無口の筆者に戻ることはありませんでした。

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