Albert Memmi著『差別の構造 性・人権・身分・階級』を精読していますが、最初に読んだのは、最終章の<差別主義と抑圧>・・・。 その1節にこのような言葉がありました。
<最後に一言しよう。 差別主義に対する戦いの困難さに眼をつぶることは出来ないのだ。 被抑圧者の立場に身を置くということは、それがどんな被抑圧者にせよ、生易しいことではない。 他者への参加は、被抑圧者が人一倍抑圧されているだけに、つまり社会的・心理的距離が被抑圧者と他の人々との間で一層大きいだけに困難である。 善意のかたまりというような非〇〇〇者であっても、〇〇〇者と非〇〇〇者との間にはしばしば大きな断絶があり・・・抑圧を受けている犠牲者には出口のない絶望を抱かせる要因があり、この要因はかれの苦悩に特別な色どりをそえるもので、非〇〇〇者の内には存在しえないものである。 というのも、そもそも定義づけから言って、非〇〇〇者はいつでも自分の実験を中止することが出来るからだ。 肌を黒く染め、南部の黒人の内で生活したアメリカ人・グリフィスの努力がどんなに共感に満ちたものであれ、かれは自分がいつでも北部に戻って「私は白人なのだ」!と叫び、意識的にみていた悪夢に終わりを告げることができるのだということを知っていた。・・・被差別の立場に完全に身を置くことは決してできないのだ>。
Albert Memmiのこの言葉の<〇〇〇者>を<被差別部落民>、<非〇〇〇者>を<非被差別部落民>ないし<差別者>という言葉に置き換えて読めば、Albert Memmi が何をいわんとしているかをすぐ理解することができるでしょう。 <被差別の立場に身を置く>ことができる、あるいは、いとも簡単に<被差別者になることができる>と妄想するのは、典型的な<差別主義者>のしるしです。 <善意>の反差別者の装いを身に着けた<差別主義者>の欺瞞でしかない・・・。
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