2023/09/18

埼玉県教育委員会『同和問題と同和教育ー指導者用資料ー』の護摩札騒動に関する記事に目を通す・・・

    午後、埼玉県教育委員会『同和問題と同和教育ー指導者用資料ー』の護摩札騒動に関する記事に目を通しました。

    その<解放への先駆ー護摩札騒動ー>の記述は、『埼玉県部落解放運動史』の護摩札騒動の記事の内容とほとんど同じ・・・。 しかし、<解釈>の仕方にかなり違いがみられます。

    私の先祖は、信州栗田村の真言宗当山派修験、伊勢の神宮寺である世義寺の末寺、徳音山観聖寺の住職・修験僧ですが、観聖寺の跡地に住み、その宗教遺産を継承しておられる長野の吉田さんのご厚意で、『観聖寺文書』を原文で読むことが許されています。 また長野市立公文書館や長野県立図書館で観聖寺関連の文献を読む機会が与えられていますが、武州で<護摩札騒動>が起きた頃は、私の曾祖父・吉田向学の曾祖父・吉田祐学が真言宗当山派の触頭をしていたころ・・・。 そのころの修験道の本山派と当山派の確執を考慮するとき、『埼玉県部落解放運動史』や『同和問題と同和教育ー指導者用資料ー』の記述と解釈に、少しく違和感を覚えるところがあります。

    『同和問題と同和教育ー指導者用資料ー』には、文化15年戌寅の<長吏祈願差留一件>の原文の一部が写真版で掲載されています。 関連史資料全文を読まなければ確定的なことはいえませんが、大乗院の行為は、当山派修験の<教憲教規>違反であり、本山派による当山派修験の浸食、抱え込みを物語るものであり、当地の当山派触頭は大乗院の行為とそれと連動する延命寺の主張を看過することができなかったのでしょう。 江戸の総触頭・凰閣寺も当地の触頭たちの判断を正当なものとして追認したようです。

    当山派修の大乗院が、大峯入峯の歳、購入した護摩札は本山派蔵王堂の護摩札であり、その本山派の護摩札を武州野田村へ持って帰り、領主・長吏などの<武士支配>に配布、<百姓支配>の村民にまで配布したというのですから、当地の真言宗当山派修験の触頭たちは、大いに問題にし、当山派修験の<教憲教規>に違反し、当山派の寺院の体面を著しく傷つけたとして、大乗院がその行為をあらためない限り、当山派修験として除名すると宣告したのではないかと思います。

    江戸の真言宗当山派の総触頭である凰閣寺に訴えても、その訴えは却下されるに決まっていたと思われます。 川越藩の修験は本山派が大勢をしめており、武士支配(藩士・侍雇・穢多・非人)に対する祝い事、憂い事にともなう修験による祈祷は、本山派の修験が行うという不文律が成立していたと思われます。 本山派の修験が長吏に対して祈祷をすることが許されていたとしても、当山派の修験が同じことをするのは禁止されていたか、それとも本山派と当山派の間で内密の取り決めがあったか、当山派修験が本山派修験の霞を犯すことにもつながりかねない要らぬ本山派修験との葛藤を未然に防ごうとしたか・・・、ともかく、野田村の護摩札をめぐる騒動は、宗教教団としての修験道世界の内部の宗教上の問題であり、長吏に対する<差別問題>などではなかった・・・、とも考えられます。    

    日本の古本屋に注文した『護摩札騒動 -武州入間郡野田村 文化十四年-』が届き次第、さらにこの問題を分析してみたいと思います。  『鈴木家文書』(埼玉県部落問題関係史料集・全5巻) の何巻に護摩札騒動に関する史資料が掲載されているのでしょうね。

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