2022/02/12

『部落学序説』再掲91.5%

今夜も、cocolog『部落学序説』の文章を、Blogger の『部落学序説』へ再掲する作業をしていました。今夜、再掲予定の449文書のうち411文書を再掲することができました。91.5%・・・。

再掲作業が終わりに近づいて思うことは、執筆計画通りに『部落学序説』の執筆ができなかったこと・・・。あくまで<序説>を書くつもりでしたが、読者の方々から<序説>を逸脱して<本論>の内容を早急に求められることが多く、本論を先取りして執筆した文章がかなりあります。筆者が交流のあった部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々の要望をかなり受け入れて執筆しましたが、筆者の『部落学序説』執筆の目的、執筆するときの視点・視角・視座は、彼らのそれとは大きく異なっていますので、いくつかの主題で見解が大きく分かれて齟齬が発生してしまいました。

新書版『部落学序説』は、当初の執筆計画の原点に立ち戻って執筆することになります。

2005年5月に『部落学序説』を執筆したとき、筆者の先祖は、母方の先祖が、四国阿波のつるぎ山麓の先祖代々百姓であったことから、百姓であると言明してきました。筆者の父が、祖父・吉田永學についてあまり多くを語らなかったために、祖父・吉田永學が、寛永14年(1637)に開山された信州栗田村の真言宗・観聖寺の住職・修験僧の長男系列直系の末裔であり、筆者もその系列の中にあることを知ったのは、2012年、山口の地を離れる半年前のことです。筆者は父から、子供のころから<吉田の家を建て直せ!>と言われていたのですが、<吉田の家はどんな家か?>と尋ねても、父は、<それは自分で調べろ!>というだけでした。<調べて分かるような家なのか?>と尋ねても、答えはありませんでした。筆者が高校3年生のとき、Sweden Covenant Missionの宣教師から洗礼を受けることを決めたとき、父と大喧嘩になりました。父は、<吉田の家は、クリスチャンを出すような家柄ではない!>と激怒していました。大喧嘩をしているとき、たまたま母を訪ねてきた従姉の文子姉さんが、<わたしがおとうさんを説得してあげる>といって、父と交渉してくれました。従姉の文子姉さんが、<おとうさんが反対していたのは、吉田の家がお坊さんの家だからみたいよ。もうすっかり時代が変わっているのに、自分の息子にそれを押し付けるのはよくない、先祖から自由に生かしてあげて、って説得したの。>と話していました。その<坊さん>というのが、明治11年、明治政府の宗教政策によって廃寺に追い込まれた伊勢神宮の神宮寺であった真言宗世義寺の末寺で、信州栗田村の太子堂である真言宗観聖寺の住職・修験僧であったことは64歳になるまで知りませんでした。

『部落学序説』の中で、近世幕藩体制下の諸藩の支配は、<武士支配>と<百姓支配>に分けられていたと主張していますが、近世幕藩体制下の民間宗教であった真言宗当山派の住職・修験僧は、<百姓支配>に属します。筆者が、『部落学序説』の中で、<百姓の末裔>を名乗っているのは、決して間違いではありません。はっきり言えることは、筆者の先祖は、父方も母方も<百姓支配>の中に身を置いていたのであって、いかなる意味でも<武士支配>の中に身を置いていなかったということです。<殺生与奪>の権を持つ軍事・警察・司法とは無縁の民衆でしかなかったということです。

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