2022/11/20

学ぶこと多くて無学名は遠し・・・

学ぶこと多くて無学名は遠し・・・

昨日、このブログで、筆者が書いた5・7・5です。2005年、筆者がブログ『部落学序説』を公開で書き下ろし執筆をはじめたとき、さまざまな批判・批難、誹謗・中傷、罵詈・雑言が送られてきました。

部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々は、筆者に、それらひとつひとつの批難に誠実な対応を求めてきました。それで、筆者、筆者の『部落学序説』の内容に批判的な、同和教育担当の学校教師からの批判・批難にも誠実に対応してきました。しかし、あるとき、インターネット上におけるやりとりは、ほとんど不毛の世界であり、学校教師たちの置かれたストレス社会から受けるストレスの憂さ晴らしとして、無責任な言葉を羅列しているに過ぎない、耳を傾けるに値しないと思うようになりました。それ以来、筆者は、インターネットで筆者の文章を公開するものの、他者の文章にコメントすることはなくなりました。非生産的なやりとりは、なにも生み出しませんから・・・。

筆者に罵詈雑言をなげかける人のなかには、<吉田向学は、向学ではなく無学がふさわしい>とコメントしてくるひともいました。<向学>という名前は、筆者の先祖、信州栗田村の真言宗観聖寺の住職が修験僧を隠退したときの名前です。しかし、この名前、姓名判断では嫌われているようで、現代では、あまり<向学>という名の人はいません。筆者を<無学>だとラベリングしている学校教師の方の知的レベル・教養レベルを物語るひとことでした。<無学>は、仏教の高僧のことです。様々な仏典をひもといて、それに精通し、もはやあたらしいことを学ぶ必要が無いといわれた高僧の名前です。

まもなく75歳になり後期高齢期に入る筆者、3,600冊の蔵書を前に、English Writing で、『部落学』(Research on Buraku Discrimination in Japan)を執筆しようと準備をしていますが、学びなおす、調べなおす、検証しなおすことが多くて、登山でいえば、4合目から5合目を目指している段階、<無学>の境地から、はるかに隔たった山麓に居ます。無学歴・無資格(Acadeic Outsider)の筆者、<学ぶこと多くて>、真言宗観聖寺の住職の末裔とはいえ、仏教の高僧<無学>の<名>前が語るその宗教的境地には、はるかに<遠し>と自己認識しての、無学歴・無資格の筆者の思いをつづったものです。

学ぶこと多くて無学名は遠し

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