日本基督教団神奈川教区の開拓伝道に従事していたとき、その2年目の7月にある事件が起きました。
それは、日本基督教団の代表的な信徒で、英文学の専門家、東京大学名誉教授であった95歳の人が、書斎で執筆しているとき、27歳の孫に撲殺された、いわゆる、<斎藤勇東大名誉教授惨殺事件>・・・。
<高学歴・高資格>の祖父が、<無学歴・無資格>の孫によって撲殺された事件・・・。開拓伝道の教会役員をしていた、東京大学出身の教育者や慶応大学の教授の知人であったようで、筆者の耳にも、いろいろな情報がもたらされました。その2年前にも、<無学歴・無資格>の息子によって、<高学歴・高資格>の両親が金属バットで撲殺されるという<神奈川金属バット両親殺害事件>が起きていました。それらの事件の背後にあるのは、<劣等感(学歴コンプレックス)>であるとの評が巷を賑わしていました。
そんな時代の風潮の中にあって、筆者は、<無学歴・無資格>者として、日本基督教団の牧師になっていったのですから、日本基督教団の牧師としてその生涯をまっとうすることについては、最初から暗雲が立ち込めていました。しかし、筆者の神学上の聖書主義、信仰上の敬虔主義、哲学上の実存主義、科学上の合理主義、法学上の<対主義に、影響をもたらすものではありませんでした。<無学歴・無資格>を、筆者に、主なる神さまが与えてくださった<所与>であると認識して、それを標榜して生きていくことにしました。<無学歴・無資格>者として生きるということは、<反学歴・反資格>を生きる選択をしたということではありません。その証拠に、筆者の娘は地方国立大学の大学院を出て、同じく別の地方国立大学の大学院を出たひとと結婚、子供も与えられてしあわせな生活をしています。娘夫婦の子育てを見ながら、筆者も妻もほっとしています。学歴主義、学歴差別主義の子育てからはほど多い、こども本位の育て方をしていますから・・・。
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