2022/11/30

聖書主義とキリスト教主義のギャップ・・・

筆者の基本的_ものの見方・考え方は、聖書主義・敬虔主義・実存主義・合理主義・相対主義ですが、筆者の<聖書主義・敬虔主義>と欧米の<キリスト教主義>との間には、かなり深い溝、ギャップがあります。特に、Sweden Covwenant Mission の宣教師から信仰と神学の手ほどきを受けた筆者は、Americanize された<キリスト教>とはかなり隔たりがあります。その政治的判断には、同調しがたいところが多々あります。それが、筆者が、日本基督教団神奈川教区や西中国教区で先輩牧師や信徒から排除・疎外された理由でしょう。

神奈川教区の開拓伝道に従事していたとき、日本基督教団の聖書日課に従って、<貧しき者は幸いなり>と共観福音書対観表を見ながら説教の準備をして説教したのですが、その教会で、教区・分区を巻き込んで大問題になりました。東京大学出身の研究者や、慶応大学の教授たちが、<この地域は、功成り名をとげた高学歴・高資格のものしか住んでいない。それなのに、吉田牧師は、一人も住んでいない「貧しき者」について説教する。今日的状況から言えば、「幸いなのは、富めるものであって、貧しきものではない。牧師は、「富めるものは幸いなり」と説教すべきである>との批判を展開しました。そのとき、筆者、農村伝道神学校の教授のひとりに呼び出され、<「貧しき者は幸いなり」ではなく、「富めるものは幸いなり」と説教しなさい。>と諭されました。それは、
筆者にとっては、Americanize化されたキリスト主義、キリスト教会の牧師・信徒の<現実>を物語るできごとでした。筆者は、<心の貧しき者は幸いなり>の<心の貧しさ>について、それを自覚して神の前に立つことが信仰であると説教していたのですが、東京大学出身の研究者や、慶応大学の教授たちが住んでいるこの地には、<心の貧しい者>はいないとの主張を撤回されることはありませんでした。筆者、<それこそが、心の貧しさの徴・・・>といって、筆者も引き下がることはありませんでした。

筆者の基本的_ものの見方・考え方、聖書主義・敬虔主義・実存主義・合理主義・相対主義はまもなく75歳になり後期高齢期に入る隠退牧師の筆者の中にも通底されています。それから40年の歳月が経過しましたが、東京大学出身の研究者や、慶応大学の教授たちは、彼らが信じる神に支えられて、<富める者は幸いなり>の人生をまっとうされたことでしょう。しかし、無学歴・無資格のただのひとである筆者と妻は、今もなお、<貧しき者は幸いなり>、<心の貧しき者は幸いなり>という主イエスさまのみ言葉に生かされています。貧しさが、主なる神さまから見捨てられたものの生きざまだとしても、その貧しさの中に、主イエスさまは共にいてくださいますから・・・。

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