2022/12/26

みことばの職人・・・

今朝6:00に起床、いつもの健康管理をして、『英訳聖書』(NSRV)を通読・・・。『旧約外典』の『Ecclesiasticus』の続きを読んでいましたが、そこには、筆者が神学校を卒業したあと、日本基督教団神奈川教区の開拓伝道所に赴任したとき、その教区総会で伝道師として准允を受けましたが、神奈川教区の開拓伝道所に赴任してきたにもかかわらず、その宣教姿勢に問題があるとして、何度も准允式が延期させられました。そして、准允式が決まったとき、筆者、所信表明を求められました。

そのときの筆者の言葉、<私は、神奈川教区の牧師さんのように高学歴・高資格は持ち合わせてはいません。みなさんを技術者にたとえると、無学歴・無資格のわたしは職人にすぎません。私は、みことばの学者・研究者、技術者としてではなく、職人として、一生、説教と牧会に磨きをかけてまいりたいと思います・・・>という内容のものでした。そのとき、筆者、神奈川教区総会に出ていた著名な牧師・神学者から、ヤジを浴びせられることになりました。<さすがジューキミシンの販売員をいていただけあって、いうことが違う!>

筆者、神学校に入る前に勤めていたのは、株式会社ジューキという会社でしたが、駅前で家庭用ミシンを販売している東京重機株式会社ではありませんでした。神奈川教区の牧師たちにとっては、株式会社ジューキも東京重機も同じだったのでしょう。独断と偏見に満ちたヤジでした。

西中国教区総会で、牧師としての按手を受けたときも、西中国教区の牧師たちから罵倒されることになりました。その理由は、筆者が按手を受けるとき、両ひざを床につけて按手を受けたというのです。先輩牧師たちは、<神学校で按手の受け方を教えられなかったのか。按手を受けるときは、両ひざをついてではなく、片膝をついて受けるものだ。按手は、ヨーロッパの騎士が主君の前にひざまづくときにとる姿勢、片膝をついて受けるものだ!>と、筆者を罵倒していました。そのときはじめて、両ひざをつくのは、百姓・農民の所作であって、西欧のナイトの所作ではないことを知りました。

筆者が、<みことばの職人>という言葉を使い出したのは、20歳のころ読んだ、『旧約外典』の
『Ecclesiasticus』のことばの影響を受けてから・・・。今日読んだ『Ecclesiasticus』の一節に、<なんという違いがあるのだろうか・・・>ということばがありました。聖書の学者・研究者・牧者たちと、このよのあまたの職人たちとのあいだの違いのことですが、『Ecclesiasticus』のことばは、前者肯定し、後者を否定したことばではなくて、前者と後者の不連続と連続を、聖書の神を信じる信仰の目から説いたものです。

今日、
『英訳聖書』(NSRV)の『旧約外典』の『Ecclesiasticus』でそのことばを読みなおしていて、筆者、自分の歩んできた道は、主なる神さまが与えてくださった、主イエスさまのみ足のあとをたどる信仰の道であったと確信しました。<みことばの職人>になることは、<みことばを生きる>ことと同義です。牧師の<神学>と<生活>が乖離した状態ほど、聖書の信仰から遠いものはありません。

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