2022/12/25

老後に自己盲目におちいるひと・・・

除雪作業をしながら、今朝読んだ、シモーヌ・ド・ボーヴォワール著『老い』の第二部の言葉を思い出していました。

<教員という職業は神経的にきわめて疲労が多い。過労と緊張のため、彼らは正当にも自分を消耗していたと感じていた、そして消耗という観念は老いという観念を導くのである。人は多くの場合、その無意識が渇望する永遠の若さが自分にあると考えようとして、即自と対自をへだてる距離を利用する・・・>。

教員の老いは、<即自>に生きるか、<対自>に生きるか、またはその二極の間を恣意的に行き来してあてどなく生きるか・・・。教員のそれまでの生き方を、老後においても引きずって生きていくことになるのか、それとも、それまでの生き方にきっぱりと決別して、あらたな人生として老いを生きることになるのか、それとも、どちらをも選択することができず、両者の間をふらふらしながら、<コギトの経験>を持つことなく老路を歩み続けることになるのか・・・。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、<・・・老人ホーム在院者の大部分は「わたしは自分が老いているとは少しも考えない・・・老いについては決して考えない・・・わたしはまだ二十歳なのだ」と答えた。・・・どうしてこのような自己盲目が可能かということが解明されなければならない・・・「わたしは他の人たちとは同じではない」。人は自分を同年齢と比較する場合、その人たちとは異なるカテゴリーに属するのだと思いたがる。なぜならん、彼はその人たちを外側からしか見ず、各人が自分自身にとってそうであるところの唯一の存在としてもついろいろな感情を他人には推測しないからだ。>と綴っていますが、<コギトの経験>を持つことのない人は、<自己盲目>におちいる・・・。

<教員>時代、熱を込めて、同和教育・解放教育に携わっていたとしても、時代が変わり、同和教育・解放教育は人権教育に名称も教育内容も変わっている。かって、同和教育・解放教育の実践者として過剰な評価を集めた<教員>は、昔をなつかしくなり、定年退職後もその延長を生きようとする・・・。しかし、もう、彼の語る言葉に耳を傾ける人はいない・・・。通り一遍の賛辞を残して遠ざかられるのみ・・・。筆者は、日本基督教団の現役の牧師であるときは、だれの言葉にも牧師として耳を傾け、<牧会>という枠組みの中でそれなりの対応をとってきたけれど、<隠退牧師>となった今は、そのようなつとめからは解放されている・・・。

それにしても、
シモーヌ・ド・ボーヴォワール著『老い』・・・、なんと、いろいろな著名人の言葉を引用して、批判・分析していることやら・・・。この『老い』の80~90%は、ボーヴォワール自身の<老い>についての言及ではなく、他者の<老い>についての言及である・・・。ボーヴォワール、農民・漁民がつくったりとったりしてきたいろいろな食材を使って、美味しい料理、たとえば、岡山の祭りずしをつくるような調理人のように、この『老い』という本を書いている・・・。『老い』にみられるボーヴォワールらしさは、献立の立て方と、食材の集め方と、調理の仕方と、盛り付け方と、食卓に料理を並べる並べ方にあると思われます。シモーヌ・ド・ボーヴォワールが、自分でその食材を栽培していないという批判は、ほとんど無意味な批判でしかない・・・。ひとは、だれでも、自分だけの人生を生きることが許されているだけで、その老いも、1回限りの経験でしかない・・・。老いの<本質>を把握しようと思えば、いろいろな他者の声に耳を傾ける以外にはない・・・。

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