2022/12/22

<たかが部落差別・・・>発言・・・

筆者のブログ『部落学序説』の一節から引用・・・。

<「下松から造船の灯を消すな」という市民集会には、地元のひとはのちのち差し障りがあるから・・・、というので、「よそもの」の筆者に、市民代表としてのあいさつ(アジ演説)がまわってきました。今から考えると、若気のいたりというか、「世の光・地の塩」の役をつとめなければならないという「使命感」にとんでいたというか・・・、思い出しても赤面せざるを得ない「演説」をしたものです。「ひとが企業をつくる。ひとを大切にしない企業はやがて滅びる。ひとが国をつくる。ひとを大切にしない国はやがて滅びる・・・」、みたいな発言をしたように思います。

筆者の演説はまったく、時代状況とは無縁で、その後、日本の国も企業も、「ひと」を軽んじる方向に突っ走ってしまいました。バブルがはじけてから、その傾向はますます強くなり、小泉政権下においてはその傾向が一段と加速されました。「格差」の問題は、国や企業が「ひと」(国民・市民)を軽んじてきた結果にほかなりません。

話が脱線しましたが、その「やられたらやりかえせ」の上映運動のあとの懇親会に、筆者が所属する日本基督教団西中国教区の「キリスト教社会館」(広島市内の被差別部落の中にある私設隣保館)の青年が、キャラバン隊の一員として参加していました。そのとき、自己紹介の席で、彼が、「やられたらやりかえせ」の上映運動に参加するようになって、「たかが部落差別と思うようになった・・・」と話したのです。キャラバン隊の彼のことばに反応するように、上映運動の執行部側のひとり、高校教師で市の同推協のメンバーをしているひとが、「そうだ、そうだ、たかが部落差別だ!」といったのです。

自己紹介が筆者の番にまわってきたとき、筆者はそのことに触れざるを得ませんでした。「被差別の側から、「たかが部落差別・・・」というのは理解できるが、差別者の側から、「たかが部落差別・・・」というのは問題ではないか・・・、と発言しました。「たかが・・・」ということばは、考察の対象を軽視するときに使用されることばです。被差別の側が、「たかが部落差別・・・」といって、自己の直面する部落差別を相対化して差別と闘うということもあるのですが、差別者の側が「たかが部落差別・・・」と相対化することに問題を感じたからに他なりません。

そのとき、懇親会に参加していた部落解放同盟新南陽支部の方々が、「その通り・・・」とあいのてをいれられていました。そのことが影響したのかどうかはわかりませんが、その後、部落解放同盟新南陽支部のある被差別部落の中の隣保館で開かれた写真展に招待され、生れてはじめて、自分の意志で、被差別部落をたずねることになりました>。

土井たか子が衆議院議長になったとき、その高校教師、筆者にこのように語り掛けてきました。<やがて、社会民主党が政権をとり、新しい時代がやってくる。そのとき、吉田牧師は、その恩恵にあずかることはできない。>と・・・。そしてまもなく、筆者、社会党関連の集会に参加することをすべからく拒否されることになりました。「下松から造船の灯を消すな」の集会で演説した筆者、その直後に共産党関連の機関からも批判され、誹謗中傷を受けることになりました。

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